「そう(さう)なし」は、
左右無し、
と当てる(広辞苑)。「左右」は、
とかくの意、
とあり、
この一条殿、さうなく道理の人にておはしましけるを(大鏡)、
と、
とやかく言うまでもない、
の意である(広辞苑・岩波古語辞典)。
サウは左右(とかく)の字の音読なり、
とある(大言海)。「とかく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.html)は、
左右、
取捨、
兎角、
と当てるが、その「左右」の「サユウ」は、
右の呉音(ユウ)、
とある(仝上)。つまり、「とかく」に当てた「左右」の訓みが、
サユウ→サウ、
と転訛したものということになる。ただ、漢字源では、
呉音ウ、漢音ユウ、
とあるので、呉音そのまま、
サウ、
かもしれない。
「そうなし」は、
とやかく言うまでもない、
の状態表現から、たとえば、
なほこの事さうなくてやまん、いとわろかるべし(枕草子)、
と、
どちらとも決めかねる、
と価値表現へシフトし、
かの太刀はまことに吉き太刀にてありければさうなく(弓と)さし替へてけり(今昔物語)、
と、
ためらわない、
と、より価値表現へと意味を広げた使い方がされているが、これは、
左右なく止まらざりければ、余所へなほ動いて(太平記)、
の、
すぐには、
の意や、
左右なく事行くとも覚えず(仝上)、
と、
たやすく、
という使い方へとつながるように思われる。
「左右(さう)」は、本来、
みぎとひだり(右と左)、
の意味だが、
山のさうより月日の光さやかにさし出て世を照らす(源氏物語)、
と、転じて、
かたわら、
の意となり、「左右(とかく)」の、
とかくのこと、あれこれ、
の意から、
人からもさうに及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ(保元物語)、
と、
とやかく言うこと、
の意となり、それが、
御左右遅しとぞ責めたりける(太平記)、
しらせ、たより、
あるいは、
諸事御左右に随ふべし(庭訓往来)、
と、
指示、命令、
の意に広がり、
軍(いくさ)の左右を待つと見るは僻事か(平治物語)、
と、
(あれやこれやの)どちらに落ち着くかという結果、決定、決着、
の意で使われ、
彼の国見て参れと云ひしに、未だ其の左右をば申さぬか、いかに(古今序注)、
と、
結果・状況についての知らせ、音信、
の意にも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。だから、
是非の左右に及ばざる間(太平記)、
と、
よしあしの裁定がなされていない、
という意にまで使う。因みに江戸時代は、
傍より女房が御はじめ申すと、盃手に取り左右するよふな手つきをすれば(明和八年(1771)「遊婦多数寄」)、
と、
合図、
の意で使っている(江戸語大辞典)。
この「左右(そう)」が、「とかく」に当てた、
左右、
の音読みなのだとすると、本来は、
とかく、とやかく言うこと、
↓
とかくの命(おほせ)、指図、
↓
とかくの知らせ、
といった「とかく」の含意を持っていると言える。それは、「そうなし」が、
サウナクは、左右(とかく)の論なくにて、たやすく、言ふまでもなきの意となるなり、此語は、形容詞なれど、サウナク、サウナキとのみ用ゐられて、サウナシ、サウナケレバの形は見えぬやうになり、
と(大言海)、「とかく」の否定の形を持っているのと重なる。
「とかく」は、
指示副詞トカクとの複合語。トはあれ、あのように、の意。カクはこう、このようにの意。状態とか立場・条件などが、あれこれと二つまたはそれ以上あって不確定なさま、
とある(岩波古語辞典)。つまり、
と(副詞・ああ)+かく(副詞・こう)、
であり、
「トカク申すべきにあらず」トカクして出立ち給ふ(竹取物語)、此の二語の間に、他の語を挿みて用ゐること多し。「とニかくニ」「とテモかくテモ」「とニモかくニモ」「とヤかく」「とサマかうサマ」など、その意推して知るべし、
とある(大言海)ように、
とにかく、
とにかくに、
とにもかくにも、
は、
とかく、
に,言葉の語調や言葉を強調する意味で,「に」や「も」を足したというところのようである。「とかく」も、
あれやこれや、
の状態表現から、
どうのこうの、
と価値表現へ転じ、
いずれにせよ、
となり、
ともすれば、
の意へと転じていく。どうやら「そうなし」も「左右」も、「とかく」(あるいは「とにもかくにも」「とにかく」に等々)に置き換えていくと、たとえば、
そうなし→とかくなし、
左右→とかく、
と置き換えても、ある程度意味が重なる。「左右」の読みから、言葉の意味は広がったが「とかく」の意味の幅をそれほどは超えていないようである。
「左」(サ)は、
会意。「ひだり手+工(しごと)」で、工作物を右手に添えて支える手、
とある(漢字源)が、工と、ナ(サ)(=ひだり手)とから成り、工具を取るひだり手、ひいて、ひだり側の意を表す。また、左手は右手の働きを助けるので、「たすける」意に用いる(角川新字源)がわかりやすい。
(「手」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8Bより)
ただ、この字源は、金文時代の説明にはなっているが、甲骨文字を見ると、そのもとになって「手」を示している字があるはずで、その説明がない。「手」は、五本指の手首を描いたもので、この「左手」とは合わない。しかし、
「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文字の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る、
とあるので(https://asia-allinone.blogspot.com/2012/07/blog-post_5.html)、「手」を簡略化したものとみられる。
(「左」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%A6より)
(「左」 金文・西周https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%A6より)
「右」(漢音ユウ、呉音ウ)は、
会意兼形声。又は、右手を描いた象形文字。右は、「口+音符又(右手)」で、かばうようにして物を持つ手、つまり右手のこと。その手で口をかばうことを意味する、
とある(漢字源)。
別に、
会意形声。口と、又(イウ 𠂇は変わった形。たすける)とから成る。ことばで援助することから、みちびく、「たすける」意を表す。のちに、又・佑(イウ)と区別して、「みぎ」の意に用いる、
とある(角川新字源)。
(「右」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%B3より)
(「右」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%B3より)
更に、
会意兼形声文字です(口+又)。「右手」の象形(「右手」の意味)と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、「神の助け」、「みぎ」を意味する「右」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji118.html)。
なお、「とにかく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.html)で「とかく」には触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95