「参る」は、
まゐ(参)い(入)るの約、
とあり(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、
「まゐく(参来)」「まゐづ(参出)」「まゐたる(参到)」などと関連して、「まゐ」と「いる」の結合と考えられる、
とある(日本語源大辞典)。「まゐる」の、
マヰは宮廷や神社など多くの人が参集する尊貴な所へ、その一人として行く意。イルは一定の区域の内へ、外から進みこむ意。従ってマヰルは、宮中や神社など尊い所に参入するのが原義、転じて、参上する、差し上げる意、
とある(岩波古語辞典)が、
貴人の居所に入って行くのが原義(日本語源大辞典)、
と、もう少し絞り込んだ見方もある。「まゐ」は、
参ゐ、
と当て、
貴き所へ行き向かふ意を云ふ敬語。常に他の動詞に冠せられて、接頭語の如く用ゐる。罷るの反なり。音便に、まう、
とあり(大言海)、万葉集に、
斯(か)くしてやなほや退(まか)らむ近からぬ道の閒をなづみ参(まゐ)来て(大伴家持)、
と使われているが、
連用形だけが残っていて、活用種類は不明、
とある(岩波古語辞典)が、
終止形が「まう」のワ行上二段活用、
とする説もある(精選版日本国語大辞典)。
「まゐいる」の意味から考えれば、
一日(ひとひ)には千たび参りし東(ひむかし)の大き御門(みかど)を入りかてぬかも(万葉集)、
というような、
参内する、
とか、
御娘の春宮に参り給ふべき御料(宇津保物語)、
と、
入内する、
宮仕えに上がる、
とか、
清水にねむごろに参りつかうまつらましかば(更級日記)、
と、
参詣する、
とか、
二条の后に忍びて参りけるを(伊勢物語)、
と、
(貴人の所へ)参上する、
という、
行くの謙譲語、
としての使い方が原意に沿ったものになる。その意味で、
古き世の一の物と名ある限りは、みなつどひまゐる御賀になむあめる(源氏物語)、
と、
物などが貴人の所へ到来する、
という意で使うのは、人の延長線上にある。さらに、「行く」意の謙譲語として、
我らがやうなる愚痴な者は、合点が参らぬ(狂言・腹立てず)、
という使い方になり、
お宅のほうへ参ります、
等々と使うのも範囲内のことになる。その意味では、
取手、打ちこかして、参ったのと云ふて引込む(狂言・文相撲)、
の、
降参する、
意や、
彼の毒舌には参る、
の、
閉口する、
意や、
さすがにだいぶ参ってきた、
の、
へばる、
意も、
彼女にすっかり参っている、
と、
心を奪われる、
意も(広辞苑)、相手の軍門に降る、という意味では、「行く」の意味の外延に入る、と言えばいえる。また、
此方へ参られよ、
と、「来る」意を、こちらがへりくだって用いることもある。
その意味で、手紙の脇づけに用いる、
不便(ふびん)とおぼしめしやり給ひ候べく候。かしこ。くらさままゐる(御伽草紙・ふくろうの草子)、
という、
~さままゐる、
も、含意は、
みもとに、
で、「行く」という意味を込めているといってよさそうである。
「行く」意の自動詞「参る」が、
「何かを奉仕するために参上する」ところからか、あるいは、「物が参る」のを、それに関与する人物の奉仕する動作として表したところからか、
他動詞化して、
物などを上位者・尊者に勧める意の謙譲語で、その動作を敬う、
意となり(日本語源大辞典)、
親王に馬の頭(かみ)大御酒参る(伊勢物語)、
と、
差し上げる、
意や、
此方を下げて相手を敬うという意味では、
はかばかしう物なども参らぬ積もりにや(源氏物語)、
と、
召しあがる、
という意でも使う(岩波古語辞典)。ある意味で、謙譲は、相手を上げて、自分を下げるのだから、その視点から相手を見れば、尊敬語となるので、
食ふ、飲む、着る、用ゐる、勧めるなどの敬語、
として使うことになる(大言海)。
この「参る」は、
まゐらす、
という形で(下二段活用)、
参らす、
進らす、
と当て、
御手水など参らする中将の君(源氏物語)、
遊びものども参らせよ(大鏡)、
と、
差し上げる、
獻ずる、
意で使うが、これは、
まいる(参)に、使役の助動詞「す」の付いた「さし上げさせる」「奉仕させる」の意の「まいらす」が、その使役される者を表に出さないで、「さし上げる」動作そのものを表わすように変化して一語化した、
とされる(精選版日本国語大辞典)。これは、転じて、
見まゐらすれ、
問ひまゐらせ候、
というように、
~して差し上げる、
お~する、
意で、
動詞の連用形に接続して謙譲の意を添える、
使い方をする(岩波古語辞典)。この、補助動詞としての用法は、
院政時代から「聞こゆ」「奉る」に代わって盛んになった。室町時代には「まらする」「まいする」の形を生じて、謙譲語・丁寧語に用いられたが、あらたまった場面などの謙譲語としては「まいらする」も使用された、
とある(精選版日本国語大辞典)。
「まゐらす」は、中世に、
まらす、
に転じる(岩波古語辞典)。
本来は下二段活用、終止形は「まらす」のはずであるが、室町時代末ごろ連用形に「まらし」の形も現われ、サ行変格活用としても用いられ、終止形も「まらする」が普通となった、
ともある(精選版日本国語大辞典)。この「まらする」は、
現代語の丁寧の助動詞「ます」の祖形にあたる、
とされる(精選版日本国語大辞典)。
おにがまいって、人をくひまらする程に、用心なされひ(狂言・伯母が酒)、
奥山の朴木(ほおのき)よなう、一度はさやになしまらしょ、一度はさやになしまらしょ(「閑吟集(1518)」)、
と、謙譲語や丁寧語として使われるが、室町時代末期には、
本動詞としては接頭語「お」を付けた「おまらす」の方が普通になって、「まらす」はほとんどみられなくなり、もっぱら補助動詞として用いられる。江戸時代に入ると、語形は「まする」さらには「ます」に変化し、謙譲語としての用法はすたれて、丁寧の助動詞として発達する、
とある(精選版日本国語大辞典)。
まゐらす→まらす→まるする→まっする→まする→ます、
といった転訛らしい。
「います」から転じた「ます(在・坐)」や「申(ま)す」から転じた語形と混合、
したとある(広辞苑)。
「参宮松」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483915572.html?1634326454)で触れたように、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、
象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、
とある(漢字源)。他に、
形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、
とあり(角川新字源)、さらに、
会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji706.html)。いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、
神社などに参る、
意や、「降参」の意の、
参る、
という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、
神社にお参りに行く、
意の、
参詣、
は、
王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、
というように、
某所に集まり到る、
意とあり(字源)、
参宮、
は、漢語にはない使い方ということになる。
「進」(シン)は、
会意。「辶+隹(とり)」で、鳥が飛ぶように前へ進むことをあらわす、
とある(漢字源)が、
会意形声。「辵」+音符「閵」、「閵」は、「躪(躙)」の古形で「踏む・踏みにじる」の意を有する。進退に関して鳥占をした事によるとも(白川静)、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%B2)、
会意文字です(辶(辵)+隹)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と、「鳥の象形」から、鳥が飛んでいく、「すすむ」を意味する「進」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji414.html)。
(「進」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji414.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95