2021年11月13日
応仁の乱大和篇
呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』を読む。
本書は、興福寺僧による、
『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』
と
『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』
というふたつの日記を中心に、応仁の乱の、
入口(嘉吉の変)と出口(明応の変)だけでなく中味の検証、
をするという。その意味で、日記の筆者である、
経覚(きょうがく)、
や
尋尊(じんそん)、
という奈良に居住する者の視点で応仁の乱をながめているところがある。確かに、
応仁の乱が勃発した要因は複数あるが、直接の引き金になったのは畠山氏の家督争いである。それは将軍足利義政が畠山問題の解決を通じて内乱を終わらせようと努力していたことからも明らかである。
そして畠山氏の家督争いがこじれにこじれたのは、義政の無定見だけが原因ではない。弥三郎・政長(まさなが)兄弟を一貫して支援し、義就(よしひろ)に徹底的に抗戦した成身院光宣(じょうしんいんこうせん)・筒井順永(つついじゅんえい)の存在が大きい。軍事的に弱体だった政長は筒井氏の援助がなければ、義就に対抗することは不可能だったはずで、その意味で、「光宣こそが大乱を招いた張本人」という尋尊の評価は的を射たものである、
にしても、あまりにも大和の局地戦に紙面を割きすぎているのではないか。そのために、隔靴掻痒、外から眺めている者たちの視点から一向に出ない恨みがある。発火点は、畠山の家督争いにしても、全国規模で11年にもわたって、戦争が続くには、発端は発端として、様々な要因が絡み合っていたはずだ。
斯波氏の後継者問題、
将軍義政の後継者問題、
赤松の再興問題、
伊勢貞親ら側近衆との確執、
等々、様々要因の中で、本来連携していた、
細川・山名、
が対立に転じ、
御霊合戦、
で、義就・政長の合戦に、山名が加担したことで、細川勝元と決定的な対立に至った。この間の経緯が、大和から、遠眼鏡で見るような経緯の説明は、細部はともかく、乱全体の動きを、結局外側からしか説明できていない気がしてならない。だから、
応仁の乱、
というタイトルではなく、
興福寺の応仁の乱、
とか、
大和の応仁の乱、
というのがふさわしいのではないか。
大和では長い間、筒井派と越智派が争っており、勝者が敗者の所領を奪うことは見慣れた光景だった。だが、あくまで興福寺に仕える大和の衆徒・国民間での所領移動であり、形式的には興福寺の影響力は維持された、
という中で、応仁の乱で、
大和はどう変化したのか、
とか、
中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした、
というのなら、それは、
どのようにプラスマイナスがあり、
応仁の乱の中で、
どのような変化があったのか、
とか、
応仁の乱そのものではなく、大和の国人たち(その多くは興福寺の衆徒たち)の「応仁の乱」そのものを細密に描けばよかったのではないか。
そうすれば、乱後に、
明応六年(1497)…九月末~十月初頭に筒井ら「牢人」が奈良に復帰し、古市・越智らは敗走した。文明九年(1477)に畠山義就によって蹴散らされた筒井氏が20年ぶりに復権したのである。
奈良を制圧した筒井は興福寺に対し「大和で戦費の調達や陣夫の動員は行わない」と誓い、越智家栄(おちいえひで)の度重なる物資徴発に苦しめられてきた尋尊を喜ばしている、
という記述が、後の戦国大名・筒井順慶(じゅんけい)へつながるのではないか。
参考文献;
呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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