2022年01月01日
大和説成り立たず
関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説―畿内ではありえぬ邪馬台国』を読む。
本書は、「はじめに」で、
大和は、四周を山に囲まれた適当な広さの盆地、まとまりのある平穏な地域であるといつも感じている。このような感覚からすると、『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらなかった。
このような経験からみると、これまで邪馬台国大和説というものは、実際の大和や古墳が示す実態とはかなり離れたところで論議が行われているような印象を受ける。
と書き、その疑問を、
これまでわかっている大和の遺跡・古墳の実態を見ていくことで、この地域の持つ特質というものを考えていきたいと思う。それが多くの解釈や理屈よりも、おのずと大和説の可否を示すものと思われる。
と述べる。
橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、石野博信とともに報告書『纒向』を著した著者による、考古学からみて、
邪馬臺国を大和に比定する説、
が成り立つのかを、検証したところに重みがある。
若井敏明『謎の九州王権』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481472191.html)、
でも触れたことだが、文献上から見ても、
畿内説、
はあり得ないと思っている。ヤマトの王権に続く大和朝廷は、
邪馬臺国、
も、
卑弥呼、
も承知しておらず、中国の史書によってはじめて知った気配である。畿内に邪馬臺国があったとしたら、それはおかしい。村井康彦『出雲と大和』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163142.html)でも触れたように、
『魏志倭人伝』で知られた倭の女王卑弥呼の名が、『古事記』にも『日本書紀』にも全く出てこないこと、
しかも、『日本書紀』の著者たちは、中国の史書で卑弥呼の内容も存在も知っていながら、にもかかわらず名を出さなかった、
等々から、卑弥呼が大和朝廷とは無縁の存在である。従って、邪馬台国は大和朝廷とはつながらないのだと思う。
本書では、それを考古学上の遺跡を通して、検証して見せる。
考古学の持つ有効性、
については、大正時代、高橋健自が、その所在地は、当時の政治・文化的な中心地であり、
その文化には支那文化の影響が相応にあったことを徴するに足る地方、
であることと、
後漢乃至魏初の影響を最著しく受けた文化を徴すべき考古学的史料、
が多く認められるかどうか、と述べたことは、今も有効であるとし、著者は、
邪馬台国の位置問題について有効と思われる、二つの方向から考えてみたい、
とし、第一は、
この時期の大和地域の遺跡や墳墓の実態というものが、はたして邪馬台国の所在地として、ふさわしい内容をもっているのかということである。それには大和の主要な弥生時代の遺跡と、庄内式から古墳初めの布留式に中心を置く纏向遺跡の実態を、邪馬台国とそれを取り巻く状況と比較することである。
第二には、
大和には箸墓古墳のような初期の大型前方後円墳が集中するが、これらの古墳と邪馬台国は年代的にどのような関係にあるのか、ということである。
と、問題への斬り込みの視点を置いている。
そして、大和の纏向遺跡、弥生遺跡から見ると、
特に顕著なことは、遺跡内容には直接的な対外交流の痕跡というものが、決定的に欠けているということである。それは北部九州の遺跡と比較するまでもなく、『魏志』にみえる邪馬台国の交流実態とは、およそかけ離れたものであるといえよう、
とし、
3世紀頃の奈良盆地において、北部九州の諸国を統属し、魏王朝と頻繁な交流を行ったという邪馬台国の存在を想定することはできない、
と結論づけている。そして、箸墓古墳をめぐっては、「箸墓」は、日本書紀にも登場し、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓、
と記されているのに、『魏志』の記述につながる記載は、神功皇后紀に、『魏志』が引用されるだけで、卑弥呼の名はない。このギャップは、上述のように、ヤマト王権が邪馬臺国も卑弥呼も『魏志』を通してしか知らなかったことを暗示している。そして、箸墓古墳は、
初期の大型古墳グループの中では、他の古墳と大きな時間差は認めがたい、
つまり、
箸墓は最古で最大の大型前方後円墳であっても、他の同時期の大型古墳より突出して古いということではない、
のであり、箸墓古墳は、
4世紀の中で考えるのが適切であり、3世紀まで遡ることは考えられない、
と結論している。それは、箸墓古墳が、他の百舌鳥・古市古墳群と同様に、その被葬者は、
中国史書に倭国王として登場する人物と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりがある人物であるとしか言いようがない、
のである、と。そして、「おわりに」で、
大和の状況、特に纏向遺跡と箸墓古墳の内容がある程度分かってきた以上、もはや決着がついたのではないか、というのが間近に見てきた著者の立場である。
また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、これまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通鑑してみた感想である。
一貫して大和説を唱えた小林行雄も、「……『倭人伝』に記された内容には、一字一句の疑いをもたないという立場をとれば、邪馬台国の所在地としては、当然九州説をとるほかないのである」と述べているとおりなのである(小林行雄『古墳時代の研究』)。
結論は考古学の視点からみても同じ結論になったものと思っている。考古学であれば、明確な事実をそのまま解釈するのが通例だが、大和説においては「伝世鏡論」などのように、そこに改変なり理屈を加えないと成り立たないため、大勢を変えるまでには至らないという印象である。
と締めくくっている。
参考文献;
関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説―畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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