ここなる僧の臆病げなる、見たうもなさよ(太平記)、
の「見たうもなさ」は、
見たうもなし、
の名詞化で、
みっともないこと、
の意である。
「みたうもなし」は、
見たうも無し、
とも当てるが、
見たくもなしの音便形、
である。つまり、
心憂(こころう)や、みとうもなや(御伽・新蔵人物語)、
と、
見むことを欲せず、
という意味である。ここでは、既に、
(そのものを)見たくない、見る気がしない、
という、
主体の価値表現(感情表現)、
の意とともに、
我が身の年の寄りてみたうもない事をば、悲しむべき事とも知らずして(三体詩抄)、
と、
(そのものの)みにくさ、外聞の悪さ、
という、現代で使う、
みっともなさ、
のいう、
客体の価値表現、
の意をも含意している。
だから、
見たくもなし→みたうもなし→みとむなし→みともなし→みっともなし→みっともない、
と転訛していくうちに、
見たくない→それが見たくもないほど見苦しい→外聞が悪い、見苦しい、
と意味がシフトしていく。「みともなし」では、まだ、
取りて突退け、見ともない、おかっしゃれ(近松「生玉心中」)、
と、
見たくもない、
意と、
どうやら犬の様で、見ともない、どりゃ放して取らせふ(近松・国姓爺合戦)、
と、
外聞悪し、人目を恥ずべし、
の意とが併用されているが、「みっともなし」となると、
みっともないまねはよせ、
というように、
見るにたえない、
外聞が悪い、
という対象の価値表現へと完全にシフトしてしまっている。
「みっともない」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163583.html)で触れたように、
中世の「見たくもなし」が、「見たうもない」「見とむない」などを経て、近世後期に「みとむない」「みっともない」となった(日本語源大辞典)、
ものだが、現代だと、
みっともいいものではない、
みっともよくない、
という言い方が生まれている(仝上)。これなどは、完全に対象の価値表現となっている。
「見」(漢音呉音ケン、呉音ゲン)は、
会意。「目+人」で、目立つものを人が目にとめること。また、目立って見える意から、現れるの意ともなる、
とある(漢字源)。別に、
会意。目(め)と、儿(じん ひと)とから成る。人が目を大きくみひらいているさまにより、ものを明らかに「みる」意を表す(角川新字源)、
会意(又は、象形)。上部は「目」、下部は「人」を表わし、人が目にとめることを意味する(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8B)、
会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます(https://okjiten.jp/kanji11.html)、
など、同じ趣旨乍ら、微妙に異なっているが、目と人の会意文字であることは変わらない。
(「見」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8Bより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95