「隔生則忘」(きゃくしょうそくもう)は、
隔生即忘、
とも当てる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
そも隔生則忘とて、生死道隔てぬれば、昇沈苦楽悉くに忘れ(源平盛衰記)、
隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(泥犂(ないり) 地獄)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、
なと、
普通一般の人は、この世に生まれ変わる時は、前世のことを忘れ去る、
という仏教用語である(仝上)。
「隔生」とは、
「きゃく」は「隔」の呉音、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
法門の愛楽隔生にも忘るべからざる歟(「雑談集(1305)」)、
二世の契をたがへず、夫の隔生(ギャクシャウ)を待つと見へたり(浮世草子「当世乙女織(1706)」)、
などと、
生(しょう)を隔てて生まれかわること
の意の仏語である(仝上)。
「隔」(漢音カク、呉音キャク)は、
会意文字。鬲(レキ)は、中国独特の土器を描いた象形文字で、間を仕切って隔てる意を含む。隔は「阜(壁や土盛り)+鬲」で、壁や塀で仕切ることを示す。鬲にはカクの音もあるので、隔の字においては鬲が音符の役割を果たすと見てもよい。そのさいは、「阜+音符鬲」の会意兼形声文字、
とある(漢字源)。ただ、
形声。阜と、音符(レキ、カク 鬲は変わった形)とから成る。わけへだてるものの意を表す、
と、形成と見るのもある(角川新字源)が、
会意兼形声文字です(阝+鬲)。「はしご」の象形と「脚が高く、地上からへだてる鼎(かなえ。古代中国の金属製の器)」の象形から、「へだてる」を意味する「隔」という漢字が成り立ちました、
と、会意兼形声とみるものもある(https://okjiten.jp/kanji1486.html)。
(「隔」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1486.htmlより)
「へだてる」意の漢字には、いくつかあり、
隔は、中に仕切りをいれるなり、史記「防隔内外」、
障は、隔也。界也。ささへ、へだつる義、禮、月令「毋有障塞」、
阻は、山川道路のへだてるに用ふ。詩、秦風「道阻且長」、又、へだて止むる義にも用ふ。阻諫の如し、
閒は、すきまをこしらへる義。左伝「遠閒親、新閒奮」。また間をへだておく義にも用ふ。閒歳は、一年間を置く意、
とある(字源)。生死の堺の意では、「隔」の字以外にはなさそうである。
「隔生則忘」は、生まれ変わり、つまり、
輪廻転生、
が前提になっている。輪廻転生とは、
六道(ろくどう/りくどう)、
と呼ばれる六つの世界を、
生まれ変わりながら何度も行き来するもの、
と考えられている(https://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/325)。六道は、
地獄(罪を償わせるための世界。地下の世界)、
餓鬼(餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる)、
畜生(鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種[9]で、苦しみを受けて死ぬ)、
修羅(阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界)、
人間(人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる)、
天上(天人が住まう世界)、
の六つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。で、
六道輪廻、
ともいう。大乗仏教が成立すると、六道に、
声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、
縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、
菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、
仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、
を加え、六道と併せて十界を立てるようになった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)、とある。この転生について、仏教の正統的立場は、
この六道に輪廻し転生する生命のあり方を、肯定するのではない。反対に、克服すべき“迷い”の中にある命とみた。地獄は苦痛にみちた無残な世界であり、天上界は幸福にみちた境界であるけれども、その天上界は救いの実現した“浄土”でもなく、善悪の行為に縛られた輪廻転生を超えた“涅槃”の世界でもない。
仏教は生死を解脱する道をこそ求める。はてしない輪廻を肯定し、転生を求めるのではない。輪廻し転生する生命のあり方を、無残な迷いと観るのである。そして輪廻の束縛からの解放を“解脱”として求め、輪廻し転生する生命、すなわち “生死する命”の超越を、“涅槃”として求め続けるのである、
とある(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000pth.html)。しかし、前世を忘れるとすると、その生命のあり方は、その都度リセットされるのではないか。とすれば、何の意味があるのだろう。
すべての前世の記憶を取り戻す方法が1つだけあります、
という(http://hounokura.houzouin.net/?eid=74)。それは、
極楽浄土に生まれることです。南無阿弥陀佛とお念仏をお称えし、阿弥陀さまのお力によって、極楽浄土にお救い頂くと、宿命通(しゅくみょうつう)という力がそなわります。この力によって、すべての前世の記憶が明らかになります。しかし、極楽浄土以外の世界に生まれ変わると、再びすべてを忘れてしまいます。
と(仝上)、信仰以外ない、という結論になるのだが、ぼくには、
仏教における輪廻とは、
単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない、
との説明(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)が気になる。
自我とはそこから生じる錯覚にすぎない、
となるらしいのだが。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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