2022年01月25日

モチーフの焦慮


吉本隆明『共同幻想論』を読む。

共同幻想論.jpg


若い時に読んだときには、あまり気にならないことが、年を経て、気づくこともある。

本書は、

「人間のつくりだした共同幻想という観点から追及するために試みられたものである。ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。」

その試みは、

「やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想の在りかたからはじまって、〈国家〉の起源の形態となった共同の幻想にまでたどりついた」

ところまでが考察されている(後記)。そして、

「ただ個人の幻想とは異なった次元に想定される共同幻想のさまざまな形態としてだけ、(民俗学とか文化人類学とかが対象とする領域の)対象を取り上げようとおもった」

とし(「角川文庫版のための序」)、その拠るべき原点を、「はじめからおわりまで『遠野物語』と『古事記』の二つに限って」、

「人間のうみだす共同幻想の様々な態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるか」

についての方法を具体的に進めていく。そのキーになる概念は、

自己幻想、
対幻想、
共同幻想、

である。言葉だけが独り歩きして、夙に有名になった「共同幻想」だが、「序」で、こう書いている。

「(文学理論、政治思想、経済学といったばらばらに見えていた問題を)統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだとおもうんです。なぜそれでは上部構造というようにいわないのか。上部構造といってもいいんだけれども、上部構造ということばには既成のいろいろな概念が付着していますから、つまり手あかがついていますから、あまり使いたくないし使わないんですけれども、全幻想領域だというふうにつかめると思うんです」

と述べ(「序」)、その「全幻想領域の構造」を解明する軸として、第一に、国家とか法とかという問題になる、

共同幻想、

第二は、家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女関係の問題である、

対幻想、

第三は、芸術理論、文学理論というものである、個体の幻想である、

自己幻想、

に、構造分解して見せたのである。

「共同幻想」と「自己幻想」「対幻想」関係は次のように説かれる。

「共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉も〈種族の母〉も〈トーテム〉も、単なる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここでは特に対幻想とよぶことにした。」

と。「社会の共同性」のなかでは個人が「逆立」するというのは、人が作り出したものであるにもかかわらず、人のための国家、人のための法ではなく、国家のための個、法のための個であるかの如く受け止めざるを得なくなるのを指し、

「単に心的な世界を実在するかのように行使し、身体はただ抽象的な身体一般であるかのように行使するというばかりではなく、人間存在としても桎梏や矛盾や虚偽としてしか〈社会〉の共同性に参加することはできないということを意味している」(個人・家族・社会)

と、

「人間の幻想の世界は共同性として存在するかぎりは、個々の人間の〈心理的〉世界と逆立してしまうのである。」

と、主客が逆転していく。この機制が、

禁制論、

から続く、各論の背骨として通っていく。

禁制論、

では、

タブーは、恐怖の共同性、

として、村落の禁制として生かされていく。

「わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制をうみだすことができる。そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。」

憑人論、

では、

「一般的にいってはっきりと確定された共同幻想(たとえば法)は、個々の幻想と逆立する。どこかに逆転する水準をかんがえなければ、それぞれの個人の幻想は共同性の幻想と接続しない。しかし、『遠野物語』の〈予兆〉譚が語っているのは個体の幻想性と共同の幻想性が逆立する契機をもたないままで接続している特異な位相である。」

そういう「せまくつよい村落」のなかに起こっている事情は、

「嫁と姑のいさかいから、他人の家のかまどの奥まで、村民にとってはじぶんを知るように知られている。そういうところでは、個々の村民の〈幻想〉は共同性としてしか疎外されない。個々の幻想は共同性の幻想に〈憑く〉のである。」

つまり、

「個体の異常な幻想がただ伝承的な共同幻想に同致しているだけである。」

巫覡(ふげき)論、

では、狐が女に化けるとか女に憑くという民潭について、

「〈狐〉が〈女〉に化けてまたもとの〈狐〉の姿を現したという『遠野物語拾遺』の民潭は、村落の共同幻想が村民の男女の対幻想になってあらわれ、ふたたび村落の共同幻想に転化するという過程の構造を象徴しているとおもえる。そして一番暗示的なのは〈女〉に象徴される男女の対幻想の共同性は、消滅することで(民潭では女が鉈で殺されることで)しか、共同幻想に転化しないことである。」

つまり、

「村落の男女の対幻想は、あるばあい村落の共同幻想の象徴でありうるが、それにもかかわらず対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。そこに村落の共同幻想にたいして村民の男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相がある…。いうまでもなく、これは村落共同体のなかで〈家族〉はどんな本質的な在り方をするかを象徴している。」

巫女論、

では、

「〈巫女〉は、共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば、村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって、〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝縮された象徴物である。〈神〉でも〈ひと〉でも、〈狐〉とか〈犬〉のような動物でも、また〈仏像〉でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。」

だから、

「『わか』に象徴される日本の口寄せ巫女がシャーマン一般とちがうのは、巫女がもっている能力が、共同幻想をじぶんの〈性〉的な対幻想の対象にできる能力なのに、シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力だということだ。巫女がしばしば修行中にも〈性〉的な恍惚を感じられるだろうが、シャーマンでは心的に禁圧された苦痛がしばしば重要な意味をもつだろう。なぜなら本来的には超えがたい自己幻想と共同幻想の逆立した構造をとびこえる能力を意味するからである。」

他界論、

では、人間の〈死〉とは何かを、心的に規定してみるなら、

「人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶ……。〈死〉の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な〈死〉は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような〈侵蝕〉を意味するために、個体の〈死〉は共同幻想の〈彼岸〉へ投げだされる疎外を意味するにすぎない。近代社会では〈死〉は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の〈侵蝕〉は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。」

そして本来時間性としてしか存在しない〈他界〉は、

「〈死〉が作為された自己幻想として関係づけられる(たとえば、山の神を邪魔したからといったような)段階を離脱して、対幻想のなかに対幻想の〈作為〉された対象として関係づけられたとき(例えば、死んだ家族が、死後家の入口にいたといったような)、はじめて〈他界〉の概念が(対幻想に侵蝕してくる)空間性として発生する。」

祭儀論、

では、女性が共同幻想として表象されることについて、

「初期の農耕社会……の共同の幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的行為が〈子〉を生む結果をもたらすのが重要ではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。(中略)つぎに……もっと高度になった形を想定できる。そこでは一対の男女の〈性〉的な行為から〈子〉がうまれることが、そのままで変容をへず共同幻想にうけいれられ、穀物の生成に結びつく段階がかんがえられる。このばあい〈子〉を受胎し、分娩する女性は、あくまでも対幻想の対象であり、(中略)対幻想そのものが共同幻想に同致される。」

民族的な祭儀では、耕作の土地と、農民の対幻想の基盤である家との間で、たとえば

「穀神が一対の男女神とかんがえられ、その対幻想としての〈性〉的な象徴が、共同幻想の地上的な表象である穀物の生成と関係づけられている」

というような民俗的な農耕祭儀に対して、大嘗祭では、巧みな構成がなされる。

「民俗的な農耕祭儀では、〈田神〉と農民はべつべつであった。世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された農民であるとともに〈抽象〉された〈田神〉に対する異性〈神〉としてじぶんを二重化させる。だから農耕祭儀では農民は〈田神〉のほうへ貌をむけている。だが世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された〈田神〉のほうへ貌をむけるとともに、じぶんの半顔を〈抽象〉された〈田神〉の対幻想の対象である異性〈神〉として、農民のほうへむけるのである。祭儀が支配的な規範力に転化する秘密は、この二重化のなかにかくされている。なぜならば、農民たちがついに天皇を〈田神〉と錯覚できる機構ができあがっているからである。」

母性論、

では、

「〈性〉的な行為を、対なる幻想として心的に疎外し、自立させてはじめて、動物と違った共同性(家族)を獲得」

した人間にとって、母系制とは、

「家族の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致している社会」

であり、〈対なる幻想〉の中で、

「〈空間〉的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹の関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは〈空間〉的にどれほど隔たってもほとんど無傷で〈対なる幻想〉としての本質をたもつことができる。」

だから、原始的母系制社会は、アマテラスとスサノオのような、

「兄弟と姉妹のあいだの〈対なる幻想〉が種族の〈共同幻想〉のに同致するところにあり、この同致を媒介するものは共同的な規範を意味する祭儀行為だということが大切なのだ。」

対幻想論、

では、そこから、

「〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した。そしてこの疎外された人物は、宗教的な権力を集団全体にふるう存在でもありえたし、集団のある局面だけでふるう存在でもありえた。それだから〈家族〉の本質はただ、それが〈対なる幻想〉だということだけである。……また〈対なる幻想〉はそれ自体の構造をもっており、いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、集団の共同的な体制とは独立しているといってよい。(中略)そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想)のなかの個人の心(自己幻想)の問題が大きく登場するようになったのである。」

そして、

「〈対なる幻想〉が生みだされたことは、人間の〈性〉を、社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼした。そのために人間は〈性〉としては男か女であるのに、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか、親族とかよばれる系列におかれることになった。いいかえれば、〈家族〉が生みだされたのである。」

罪責論、

では、

「『高天が原』を統治するアマテラスが、神の託宣の世界を支配する〈姉〉という象徴であり、スサノオは農耕社会を現実的に支配する〈弟〉という象徴……の形態は、おそらく神権の優位のもとで〈姉妹〉と〈兄弟〉が宗教的な権力と政治的な権力とを分治するという氏族(または前氏族)的な段階での〈共同幻想〉の制度的な形態を語っている。そしてもうひとつ重要なのは、〈姉妹〉と〈兄弟〉とで〈共同幻想〉の天上的および現世的な分割統治がなされる形をかりて、大和朝廷勢力をわが列島の農耕的社会とむすびつけていることである。」

とし、そこでスサノオが負わされた〈原罪〉は、

「農耕土民の集落的な社会の〈共同幻想〉と、大和朝廷勢力に統一されたのちの部族的な社会の〈共同幻想〉のあいだにうまれた矛盾やあつれきに発祥したのはたしからしくおもえる。もとをただせば、大和朝廷勢力が背負うはずの〈原罪〉だったのに、農耕土民が背負わされたか、または農耕土民が大和朝廷勢力に従属したときに、じぶんたちが土俗神にいだいた負目にしたか、どちらかである。けれど作為的にかあるいは無作為にか混融がおこった。農耕土民たちの〈共同幻想〉は、大和朝廷の支配下での統一的な部族社会の〈共同幻想〉のように装われてしまった。」

規範論、

では、〈規範〉は〈宗教〉からはじまって〈法〉や〈国家〉にまで貫かれてゆくが、

「法的な共同規範は、共同体の〈共同幻想〉が血縁的な社会の集団の水準をいささかでも離脱したときに成立した」

のであり、

「未開な社会では、……〈法〉はまだ、犯罪をおかした人を罰するのか、犯罪行為を罰することで〈人〉そのものを救済しているのか明瞭ではない。そのためおそらく〈清祓〉(はらいきよめ)の義式と罰則の行為とが、未開の段階で〈法〉的な共同規範として並んで成立するのである、〈清祓〉の儀式そのものが〈法〉的対象であり、ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を追わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり、代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。」

そして、法への変化は、

「経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、〈共同幻想〉としての〈法〉的な規範は、ただ前段階にある〈共同幻想〉を、個々の家族的あるいは家族集団的な〈掟〉、〈伝習〉、〈習俗〉、〈家内信仰〉的なものに蹴落とし、封じこめることで、はじめて農耕的な〈共同規範〉を生みだしたのである…。だから〈共同幻想〉の移行は一般的にたんに〈移行〉ではなくて、同時に〈飛躍〉をともなう〈共同幻想〉それ自体の疎外を意味する…。」

のである。

起源論、

では、国家の原始的な形を、

「〈国家〉とよびうるプリミティブな形態は、村落社会の〈共同幻想〉がどんな意味でも、血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされたら村落社会の〈共同幻想〉ははじめて、家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき〈共同幻想〉は家族形態と親族体系の地平を離脱して、それ自体で独自な水準を確定するようになる。」

この意味から見ると、邪馬臺国や初期大和朝廷の〈法〉の段階は、かなり発達した段階にあり、たとえば、

「おなじ田地の侵犯が世襲的な宗教的王権の内部でかんがえられる〈法〉概念と、政治的な権力の核に想定される〈法〉概念とでは、それぞれ相違していることになるという問題にであう。宗教的な王権の内部では田地の侵犯に類する行為は〈清祓〉の対象であるが、政治権力の次元ではじっさいの刑罰に値する行為である。この同じ〈罪〉が二重性となってあらわれるところに、おそらく邪馬台国的なあるいは初期天皇群的な〈国家〉における〈共同幻想〉の構成の特異さがあらわれている。もちろんこれは、王権の継承が呪術宗教的なもので、現世的な政治権力の掌握と同じことを意味していない初期権力の二重構造に根ざすものであった。」

と、

未開的な共同幻想、

から、

国家の起源レベルの共同幻想、

への大づかみな展開を手繰ってきただけで、前例のない論考だということは論を俟たない。しかし、どこか苛立たしいものがあるのは、引用した文章が「結語」の部分を選んだせいもあるが、極めて断定的に結論づけているのに気づくはずだ。しかし、この断定に至る論理の道筋はあまり示されない。むしろ、

共同幻想、
対幻想、
個人幻想、

という概念が、まずありきで、それが帰納的に定義されることなく、その概念を演繹するように、『古事記』や『遠野物語』から、事例的に抽出され、論旨が展開されていく。ヘーゲルやルカーチなど、様々な引用も、丁度、著者が文芸評論でするように、論旨の正否の素材とされていく。だから、『古事記』や『遠野物語』の分析は、まるで文芸作品の評論のように分析されている。しかし、場違いかもしれないが、

「同じものが自己自身に異なった形を与えたために、成しとげられたことではなく、おなじものが形もなく繰り返されたためであることがわかる。このおなじものは、異なった素材に外から適用されており、(中略)ただ一つの動かぬ形式を、現存するもののあれこれにひきまわし適用する結果、素材はこの静止した場に外からしみこませる結果、内容についての勝手な思いつきと同じで、求められたものを実現することにならないし、充実した内容が自分のなかからあふれでることにもならない。」

という言葉(ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学』)とシンクロしてしまった。

確かに、著者のいう、

「本書の基本となっているわたしのモチーフは、具体的な場面では、ふたつあった。ひとつは、種々の人間が、共同観念の世界、たとえば政治とか法律とか国家とか宗教とかイデオロギーとかの共同性の場面に登場するときは、それ自体が、相対的には独立した観念の世界として、あつかわなければならないし、また扱いうるということである。そう扱わないことから起こる悲喜劇は、戦争期しこたま体験してきた……。もうひとつのモチーフは、個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に滲入され混和してしまうという、わが国に固有な宿業のようにさえみえる精神の現象は、どう理解されるべきか、ということである。」

というモチーフから見て、共同幻想に取り込まれていくプロセスの不可避的な重要性は、能くわかる。わかるだけに、モチーフの焦燥が逆に目についた、というべきかもしれない。

なお、吉本隆明『言語にとって美とはなにかⅠⅡ』http://ppnetwork.seesaa.net/article/485160561.htmlについては、別に触れた。

参考文献;
吉本隆明『共同幻想論』(河出書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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