道士どもが朝夕(ちょうせき)業とする処なれば、するに難からじとて、玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、芝荻(してき)を香に烓(た)いて、気を飲み、鯨桓(げいかん)の審に向かって、天に昇らんとすれども(太平記)、
にある、
鯨桓の審、
とは、
鯢桓之審、
である。
鯢桓之審、
とは、
雌くじらの集まる淵、
の意である。ここにある、
玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、
芝荻(してき)を香に烓(た)いて、
気を飲み、
鯨桓(げいかん)の審に向かって、
云々は、
道士の術、
らしく、後漢の顕宗皇帝の前で、摩騰法師という沙門と道士に、
天に上り、地に入り、山を擘(つんざ)き、月を握る術
を競わせんとしたもの。当然、道士たちには、
朝夕(ちょうせき)業とする、
術のはずだから、容易だと考えたらしい、ということなのである。結果は、
仏力に押されて、することを得ざる、
破目に陥った、ということなのだが、この中の、
玉晨(ぎょくしん)君、
は、
道教で祀る仙人、
であり、
芝荻(してき)
は、
香に焚く芝や荻、
の意であり、
気を飲み、
は、
気分を集中する、
意である(兵藤裕己校注『太平記』)。
鯢桓之審、
の「鯢」は、
雌くじら、
の意で、
雄くじら、
の意の、
鯨、
に対して言う。「雄くじら」は、
鰕(カ)、
とも当てる。ただ、「鯢」(漢音ゲイ、呉音ゲ)は、
会意兼形声。「魚」+音符「兒(=「児」)」。「兒」は「ちいさい、おとる」の意、
で(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AF%A2)、「雌くじら」の意よりは、
サンショウウオ、
や、
鯢鰕(ゲイカ)、
というように、
小さい魚、
の意もある。「人魚」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483024554.html)で触れたように、「さんしょううお」の意の、
鯢(ゲイ)、
は、
䱱魚、
鯢魚、
と当て、
鯢魚、
の漢名は、
人魚、
である(大言海)。
その面、猴に似て、其聲、小児の啼くが如し、
とある(仝上)。
貝原益軒編纂の『大和本草』(宝永七(1709)年)には、「䱱魚(ていぎょ)」は、
名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類ニ記ス、
とし、「鯢魚(げいぎょ)」は、
おおさんしょううお、
と訓まし、
溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニテヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑メハ膈噎ヲ治ス、
とある(https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2019/06/post-58535d.html)。
さて、「鯢桓之審」の由来は、『荘子』応帝王にある、
鯢桓の審を淵と為す、
であり(兵藤裕己校注『太平記』)、
鯨(くじら)が旋回して集まるような、大海の水深が深い場所、
の意である(四字熟語辞典)。「審」は、
水深が深いところ、淵(ふち)など、
の意である(仝上)。応帝王(おうていおう)篇には、
明日、列子與之見壺子。出而謂列子曰、嘻子之先生死矣、弗活矣、不以旬數矣、吾見怪焉、見灰焉。列子入、泣涕沾襟、以告壺子。壺子曰、鄉吾示之以地文、萌乎不震不正。是殆見吾杜德機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、幸矣子之先生遇我也。有瘳矣、全然有生矣。吾見其杜權矣。列子入、以告壺子。壺子曰鄉吾示之以天壤、名實不入、而機發於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、子之先生不齊、吾無得而相焉。試齊、且復相之。列子入、以告壺子。壺子曰、吾鄉示之以太沖莫勝。是殆見吾衡氣機也。鯢桓之審為淵、止水之審為淵、流水之審為淵。淵有九名、此處三焉。嘗又與來、
とある(http://furoppa.blog.fc2.com/blog-date-20111206.html)。
列子は、心服している占い師季咸(きかん)を師匠の壷子に引き合わせた。壷子に会った季咸は、
あなたの先生はまもなく死ぬでしょう。せいぜい十日の命です。先生に湿った灰の相を見たのです、
と告げる。慌てて師匠にその話をすると、
吾示之以地文、
と、
地文、
を見せた、という。翌日、壷子にあった季咸は、生気が戻った、と告げる。そのことを列子が壷子に告げると、
吾示之以天壤、
と言い、翌日、再び壷子にあった季咸は、
子之先生不齊、吾無得而相焉、
と、相が変じて占えぬ、と言った。それを列子が壷子に告げると、
示之以太沖莫勝、
と、太沖莫勝(たいちゅうばくしょう)の相を見せたのだという。自分の中の、九つある淵のうち、
鯢桓之審為淵、
止水之審為淵、
流水之審為淵、
を見せたのだ(仝上)と言ったというところに依る。結局、この占い師季咸は、
明日、又與之見壺子。立未定、自失而走
四度目に壷子の顔を見た途端逃げだした、という落ちがある(https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5033/)らしい。
なぜ「鯨」でなく、「鯢(「雌くじら)」なのかはよくわからない。「雌くじら」の集まる処には、多くの雄くじらが集まってくる、それほど深い淵という喩えなのだろうか、と推測するが。
「桓」(漢音カン、呉音ガン)は、
会意兼形声。亘(カン)は、ぐるりを取り巻く意を含む。桓は「木+音符亘」で、ぐるりと取巻いて植えた木、
とある(漢字源)。「漢代、郵亭(宿場)のしるしとして、宿場の周りに立てた木」の意である。
(「桓」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A1%93より)
「審」(シン)は、
会意。番(ハン)は、穀物の種を田にばらまく姿で、播(ハ)の原字。審は「宀(やね)+番」で、家の中にちらばった細かい米粒を、念入りに調べるさま、
とある(漢字源)。別に、
本字は、会意。宀と、釆(はん わける)とから成る。おおわれているものを区別して明らかにすることから、「つまびらかにする」意を表す。のち、宀と番とから成る字形となった、
とも(角川新字源)、
形声文字です。「屋根・家屋」の象形(「屋根・家屋」の意味だが、ここでは、「探(シン)」に通じ(同じ読みを持つ「探」と同じ意味を持つようになって)、「さぐる」の意味)と「種を散りまく象形と区画された耕地の象形」(「田畑に種をまく」の意味)から、要素的な物をばらばらにして「つまびらかにする」を意味する「審」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1689.html)。ここで、「鯢桓之審」の、
鯢桓之審為淵、
の「淵を為す」の意味が幽かに繋がる。
(「審」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1689.htmlより)
なお、「くじら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456973765.html)については触れた。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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