2022年02月12日

学問の底力


丸山眞男『現代政治の思想と行動』を読む。

現代政治の思想と行動.jpg


本書について、著者は、

「戦後の私の思想なり立場なりの大体の歩みがなるべく文脈的に明らかになるように配慮しながら、同時に、現代政治の諸問題に対する政治学的なアプローチとはどのようなものかというあらましのところを広い読者に紹介し、……日本における政治学の『内』と『外』との交通の甚だしい隔離をいくぶんでも架橋しよう」

という意図が交錯するものになった、と述べている(旧版への後記)。戦後16年にわたる著述である。そして、

「私自身の選択についていうならば、大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』のほうに賭ける」

と述べた(増補版への後記)、まさに戦後80年近くなって、ますます、

戦後民主主義を虚妄、

にしようとする傾向が著しい現在、本書の、戦中、戦後を見る論旨が、そのまま、現在の政治を射る矢となって、

正鵠を射ている、

ことに吃驚させられる。たとえば、安保闘争のさなかに書かれた、「現代における人間と政治」に引かれた、ルッター教会牧師マルチン・ニーメラーが、ナチスの権力集中過程「グライヒシャルトゥング」(強制的同質化)を振り返って述べた言葉、即ち、

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なお何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。」

という言葉がある。著者は、

「あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーでさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり『内側の住人』であったということであり、……すべてが少しずつ変わっているときには誰も変わっていない」

と、中側にいるとき、「最初から少し離れてみていない限り」、

「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折遺憾の意が表明される次第で、……こうしたすべての小さな措置が原理的に何を意味するということを理解しない限りは、人々が見ているのは、ちょうど農夫が自分の畠で作物が伸びていくのを見ているのと同じなのです。ある日気づいて見ると作物は頭よりも高くなっている」(ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』の中の言語学者の証言)、

事態に驚愕することになるのである。いま日本で起きていることが、これと異なると、断言できる人は、よほどの楽天的な人か、時代に掉さす人なのだろう。

そういう目で見ると、今日のことを書いたものではないにもかかわらず、まるで今日を予言したかの如き分析が、随所に見える。

例えば、戦前についての言及の、

「国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためかという内容的な決定をば『天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ』(官吏服務規程)の忠勤義務を持つところの官吏が下すという点にその核心があるのである。そこでは、『内面的に自由であり、主題のうちにその定在をもっているものは法律のなかに入ってきてはならない』(ヘーゲル)という主観的内面性の尊重とは反対に、国家は絶対価値たる『国体』より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによっていかなる精神領域にも自在に浸透しうるのである。
 従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは一切存在しないことになる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。(中略)こうしたイデオロギーは何も全体主義の流行と共に現われ来ったわけでなく、日本の国家構造そのものに内在していた。従って私的なものは、即ち惡であるか、もしくは惡に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。(中略)『私事』の倫理性が自らの内部に存せずに、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。」

という(「超国家主義の論理と心理」)、

「私事」の倫理性が自らの内部に存せずに、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである、

の、

国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果、

を、今日までの10年余の政権運営に、目の当たりにしてきたのではなかったか。この文章は、國のため、国家の名目で、私的利害を平然と導入して恥じない、今日の風潮をそのまま指摘しているに等しい。それは、戦後80年近くたって、

民主主義の鍍金、

が剥げ、明治以来の利権体質が、国家の名目でまかり通っていることを示している。明治以降、基本的に日本の政治制度も行政制度も、官僚機構も、その体質を、敗戦にもかかわらず、少しも変化させず、底流で存続してきたのではないか、とふと慄然とする。

そして、こうした政治勢力のトップ集団の特色は、

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した、」

という体たらく(仝上)にもかかわらず、

国民がおさまらないから、

という口実を設ける。しかし、

「『国民』というのは……、軍務課あたりに出入りする右翼の連中であり、更に背景となっている在郷軍人その他の地方の指導層である。軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層に排外主義や熱狂的天皇主義をあおりながら、かくして燃え広がった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機まで推し進めていかざるをえなくなった」

と(「軍国支配者の精神形態」)、その「国民」が、

畢竟匿名の無責任な力の非合理的な爆発、

なのである(仝上)。民主主義の機能しない社会では、

下からの力が公然と組織化、

されることはない。まさにこの、

匿名の無責任な力、

が、「反日」(かつてなら「アカ」と呼んだだろう)の名のもとに、イベントや美術展、映画上演、憲法勉強会すらを脅迫し、追い詰めている。その背後に、今日、為政者の隠然とした意志がある。

著者は、その時代を論述しているだけだが、皮肉なことに、次の文章は、まさに、今日の議会の空洞化、民主主義の形骸化を予測するものになっている。それが学問の持つ底力なのかもしれないが。

ひとつは、

「国民の政治的権利の行使は投票日に行って、投票する権利だけでそれ以外の政治行動は議会政治下においてはあるべからざる『暴力』だ――こういう考え方で、国民の日常的な政治活動を封殺していく。形式的な選挙のメカニズムは保存しながら、その結果を『国民の意思』に等置するというフィクションで体制への黙従を推し進めるだろう。」(追記及び補注)

いまひとつは、

「『民主主義』の名において『民主主義』の敵を排除するということが第一の主要な課題になっていく。異端の排除すなわち民主主義的自由と考えられてくるということです。異質的なものを排除するというプロセスを通じて――例えば左右独裁を排除するという名目の下に、実質的にはヴァラエティをなくして正統化された思想に画一化していくわけです。個々の政党なり政治家の批判は許しても、体制自身の批判はタブーになる。」(仝上)

こんにちの、

デモ、

抗議行動、

そのものが批判にさらされつつある風潮が、やがてはデモが規制されるだろう傾向を、既に予言している。

すぐれた学問的な分析が、真理を導き出す見本のように思うとともに、結局、戦後民主主義自体が、形骸化され、元の木阿弥になっていこうとする、この社会の本質に、絶望的になる。

なお丸山眞男『日本政治思想史研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/481665107.htmlについては別に触れた。

参考文献;
丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:55| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください