よしや、ただ一業所感(いちごうしょかん)の者どもが、この所にて皆死すべき果報にてこそあらめ(太平記)、
にある「一業所感」は、
同じ業により現世で同じ報いを受ける者たち、
と注記がある(太平記)。「業(ごう)」は、
サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語、
で、
羯磨(かつま)、
とも当てられる(広辞苑)。
もともとクル(為(な)す)という動詞からつくられた名詞であり、行為を示す、
が、しかし、
一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という、
とある(日本大百科全書)。それはまず素朴な形では、
いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられて、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な術語、
となり、
善因善果・悪因悪果、さらには善因楽果・悪因苦果の系列は業によって支えられ、人格の向上はもとより、悟りも業が導くとされ、さらに業の届く範囲はいっそう拡大されて、前世から来世にまで延長された、
とある(仝上)。
現在の行為の責任を将来自ら引き受ける、という意味に考えてよいであろう。確かに行為そのものは無常であり、永続することはありえないけれども、いったんなした行為は消すことができず、ここに一種の「非連続の連続」があって、それを業が担うところから、「不失法」と術語される例もある、
との解釈は、「業」を身に受けるという主体的解釈に思える(仝上)。仏教では、
三業、
といい、
その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを成す、
とし、
善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生む、
としている(広辞苑)。だから、業による報いを、
業果や業報、
業によって報いを受けることを、
業感、
業による苦である報いを、
業苦、
過去世に造った業を、
宿業または前業、
宿業による災いを、
業厄、
宿業による脱れることのできない重い病気を、
業病、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD)。で、自分の造った業の報いは自分が受けなければならないゆえに、
自業自得、
ということになる。初期の仏教では、業をもっぱら、
個人の行為、
に直結しているが、やがては社会的に拡大して多くの個人が共有する業を考えるようになり、
共業(ぐうごう)、
とよび、個人ひとりのものは、
不共業、
と名づけるともある(日本大百科全書)。
こうみると、
一業所感、
は、
一業所感の身なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひしられけん(平家物語)、
と、
同一の善悪の業(ごう)ならば同一の果を得る、
という意味であり、
共業共果(きょうごうきょうか)、
ともいう(大辞泉)。「一業」は、
一つの行為、
だが、
ひとの業因(岩波古語辞典)、
つまり、
結果を招く一種の力をもったはたらき、
を指し(精選版日本国語大辞典)、「所感」は、今日では、
今日の事件を材料にして、早速、所感を書いて送る事にしよう(芥川龍之介「手巾」)、
と、
心に感じたこと、感想、
の意だが、仏教用語では、
此業力所感の故に、業の尽不尽に依て生を改めて(「覚海法橋法語(12C終~13C前)」)、
と、
(前世での)過去の行為が、その結果としてもたらすもの、
の意となる(四字熟語を知る辞典・精選版日本国語大辞典)。「字通」(白川静)には、「所感」について、
心に感じる。〔列女伝、母儀、周室三母伝〕子を姙(はら)むの時は、必ず感ずるを愼む。善に感ずるときは則ち善、惡に感ずるときは則ち惡なり。人生まれて物に肖(に)るは、皆其の母、物に感ずればなり、
とある。
「一」(漢音イツ、呉音イチ)は、
指事。一本の横線で、一つを示す意のほか、全部をひとまとめにする、一杯に詰めるなどの意を含む。壱(イチ)の原字壹は、壺に一杯詰めて口をくびったたま、
とある(漢字源)。
(「一」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%80より)
「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、
象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、
とある(漢字源)が、別に、
象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か?
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD)、
象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji474.html)、
ぎざぎざのとめ木のついた台、
が、
のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、
と特定されたものだということがわかる。
(「業」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji474.htmlより)
「所」(漢音ソ、呉音ソ)は、
形成。「斤(おの)+音符戸」で、もと「伐木所所(木を伐ること所々たり)」(詩経)のように、木をさくさくと切り分けること。その音を借りて指示代名詞に用い、「所+動詞」の形で、~するその対象を指し示すようになった。「所欲」とは、欲するそのもの、「所至」とは、至るその目標地をさし示した言い方。後者の用法から、更に場所の意を派生した、
とある(漢字源)。
別に、
会意文字です(戸(戶)+斤)。「入り口の戸」の象形と「斧(おの)」の象形から斧等を置いた入り口の戸を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ところ・ばしょ」を意味する「所」という漢字が成り立ちました
ともあり(https://okjiten.jp/kanji468.html)、
会意、「斤」(おの)で「戸」を守るの意で、神の居る所(白川静)。または、「戸」を音とし、「斤」で切り開く意であったものが、音を仮借し指示代名詞として用いた(藤堂明保)、
と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%80)、
「戸」を守る、
の意と、
「戸」を音、
の意との二説ある。
(「所」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji468.htmlより)
「感」(漢音カン、呉音コン)は、
会意兼形声。咸(カン)は、戈でショックを与えて口を閉じさせること。緘(とじる)の原字。感は「心+音符咸」で、心を強く動かすこと。強い打撃や刺激を与える意を含む、
とあり(漢字源)、
形声。心と、音符咸(カム)とから成る。外物に対して心が動く意を表す、
と(角川新字源)、
会意文字です(咸+心)。「口の象形とまさかりの象形」(「大きなまさかりの威圧の前に口から大声を出し切る」の意味)と「心臓の象形」から大きな威圧・刺激の前に「心が動く・かんじる」を意味する「感」という漢字が成り立ちました、
と(https://okjiten.jp/kanji439.html)、
これも、
会意形声。「心」+音符「咸」、「咸」は「戌(←戈+一)」+「口」の会意文字で、
武具で脅して口を閉じさせるの意であり、「緘」の原字で、「感」は口を閉ざすほどの心理的に強い衝撃の意(藤堂)、
または、
神器に武具をあわせ神威を得るの意(白川)、
の二説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%84%9F)。
(「感」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji439.htmlより)
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:一業所感