「水干」は、
水干の袍(ほう 束帯、それを略した布袴(ほうこ)、衣冠、日常着の直衣(のうし)などの上着)、
水干の狩衣(かりぎぬ)、
と言うように、
糊を用いず水張りにて干し、乾いてから引きはがして張りをもたせて仕立てた衣、
の意である(広辞苑・大言海・日本大百科全書)。しかし、専ら、
水干の狩衣(かりぎぬ)の略称、
として使われ、製法は、
狩衣と異ならず、
とある(大言海)。その形式は、
盤領(あげくび 首紙(くびかみ)の紐を掛け合わせて止めた襟の形式、襟首様)、身一幅(ひとの)仕立て、脇あけで、襖(あお)系の上着。襟は組紐(くみひも)で結び留め、裾は袴(はかま)の中に着込める、
とある(日本大百科全書)。「襖(あお)系の上着」とは、
日本古代の衣服の一種。ペルシア系の唐風上着、盤領(あげくび)で身頃(みごろ)が一幅(ひとの)と二幅(ふたの)のものがある。この上着の裾に、生地を横向きにして縫いめぐらした襴(らん)という部分がつかず、両脇があいた無襴衣(むらんい)である。もとは狩猟用に用いられ、平安時代に日常着として親しまれた狩衣(かりぎぬ)は狩襖(かりあお)ともいわれた、
とある(仝上)。「幅(の)」は、
布帛類の幅(はば)を表わす単位、現在、普通には鯨尺八寸(約30センチメートル)ないし一尺(約38センチメートル)
をいう(精選版日本国語大辞典)、とある。
(水干姿(伴大納言絵巻) 有職故実図典より)
「狩衣」と「水干」の違いは、
狩衣は、袴の上に着したが、水干は袴の下に着こめて行動の便をはかったこと、
菊綴(きくとじ)を胸に一ヵ所、背面・左右の袖の縫い目に四ヵ所、ほころび易いところに、特に太い組糸を通して結び、時には結び余りを糸総(いとふさ)として、いずれも二つずつつけた(その形から菊綴という)、
胸紐の、前は領(えり)の上角にあり、後は領の中央にあり、二条を、右肩の上にて打ち違え捩(もじ)りて、胸にて結ぶ、
等々といったところにある(有職故実図典・広辞苑・大言海)。狩衣が、広く有司(ゆうし)に使用されて華麗に形式化されたのに対して、水干は専ら、庶民に用いられ、平安時代以降、朝廷に仕える下級官人が用いたが、平安時代後期には、衛府の下級武官となった武士も水干を用い、鎧の下にも着用した。水干姿もしだいに礼装化して、鎌倉時代から室町時代にかけて、武家は狩衣とともに礼装として着用されるに至る(広辞苑・日本大百科全書)。
(水干姿(「法然上人絵伝」) 有職故実図典より)
(童水干(童水干は実際には括れない、飾りの置括になっている) 有職故実図典より)
(童水干姿(法然上人絵伝) 有職故実図典より)
「水干」姿の構成は、
烏帽子、
水干、
水干袴、
単(ひとえ)、
扇、
沓(くつ)または緒太(おぶと)、
からなるのを普通とし、五位以上は立烏帽子、六位以下は風折烏帽子という(有職故実図典)。「烏帽子」については、「しぼ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475131715.html)で触れた。なお、「緒太」は、
沓ぬぎに緒ぶと御ぬぎ候(石山本願寺日記・私心記(天文五年(1536)五月一二日)、
と、
裏の付いていない、鼻緒の太い草履、
とある(精選版日本国語大辞典)。
(緒太 精選版日本国語大辞典より)
なお、「水干」の語源は、上記のように、
糊を用いず水張りにして干した衣、
とするのが大勢(広辞苑・大言海・南嶺遺稿・卯花園漫録・有職故実図典・岩波古語辞典)であるが、別に、
スイカンバカマ(水灌袴)の義か、灌には洗う意がある、
とするもの(筆の御霊)もあるが、意味はほぼ同じである。
(狩衣(和漢三才図絵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E8%A1%A3より)
ところで、「水干」の原型になった「狩衣」は、
もと狩のときに用いたから、
といい(広辞苑・岩波古語辞典)、
猟衣、
雁衣、
とも当てる(仝上)。
制、襖(あお)に似たれば、狩襖(かりあを)とも云ひ、袴を狩袴(かりばかま 指貫さしぬき)と云ひ、古くは、上下共に、布にて製しかば、布衣(ほい)、布袴(ほうこ)とも云へり、衣に袖括(そでくく)りあり、袴に裾括りあるは、放鷹、射猟の時、引き括るべきために、軽便なる服なれば、平時にも用いるやうになりしなり、
とある(大言海)。「指貫」は、
八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの、
である(精選版日本国語大辞典)。
「狩衣」は、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、
両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、
となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、
布衣(ほい)、
と呼ぶようになり、
狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、
が用い、
地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)は布衣を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。ただ、近世では、有文の裏打ちを、
狩衣、
とよび、無文の裏無しを、
布衣、
とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。
(狩衣(法然上人絵伝) 有職故実図典より)
(狩衣 前後 有職故実図典より)
狩衣姿の構成は、
烏帽子、
狩衣、
当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、
衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、
単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、
指貫(さしぬき)、
下袴(したばかま)、
扇、
帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、
浅沓(あさぐつ)、
とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。
なお、「畳紙(たとうがみ)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/425358088.html)については、触れた。
(浅沓 有職故実図典より)
(深沓 同上)
「浅沓」は、
深沓(ふかぐつ)、
に対する名称で、鳥皮履(とりかわのくつ)の変化したもので、
足の爪先から甲にカけて差し込むだけの浅い構造、
から由来する名称(有職故実図典)で、古代、中世は、
前方が丸く盛り上がり、後方が細くなった舟形のもので、皮に黒漆を塗った烏皮履(くりかわのくつ)のほか、木製に黒漆を塗った、いわゆる木履(もくり)が使われた。内部の底敷きとして、白の平絹や白の綾(あや)が張られたが、公卿(くぎょう)以上のものには、その表袴(うえのはかま)と同質の浮織物が用いられた、
とあり(日本大百科全書)、「深沓」は、公家の外出用で、激しい雨や深雪のときの所用とされている。
足首から上の立挙(たてあげ)と呼ぶ筒の部分も含めて,すべて牛の革製で,表面を黒漆で塗りこめ,袴の裾口にふれる立挙の縁には染革をめぐらしている、
とあり(世界大百科事典)、庶民はわら製の深沓(履)を用いた。
参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95