「白星の五枚甲の、吹返(ふきかえし)に日光、月光(がっこう)の二天子を金と銀とを以て彫り透かして打ったるを、猪頸に着なし(太平記)、
とある、
猪頸に着なし、
は、
兜を少し後ろにずらして深くかぶり、
の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。
「猪頸」は、
猪首、
とも当て、
イクビノヒト(日葡辞書)、
のように、
猪の首に似ている、
ところから(岩波古語辞典)の、
短い首、ずんぐりした首、
意だが、
旗さしは黒かはをどしの鎧に、甲猪頸に着ないし(平治物語)、
と、
猪首に着なして、
猪首に着ないし、
と使うときは、
兜などのかぶりものをあおむけて、深くかぶること、
また、
着物など襟を高めにして着て首が短く見えるさま、
という意味で使う(精選版日本国語大辞典)。これは、ただ、そういう着方、被り方をしているという状態表現だが、兜を猪首に着るのは、
戦いにあたって視界をよくするためのかぶり方、
で、
首筋を覆う錏(しころ)が深くかかって首が短く見える、
ためだが、
それは、額が露出して危険なので、勇敢さを示すことにもなる、
という価値表現の含意がある。いくさの場でない、通常は、
寒気や雨滴が首筋にかかるのを防ぐためにするかぶり方、
とある(精選版日本国語大辞典)。
(騎馬武者(「蒙古襲来絵詞」) https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/index.htmlより)
ただ、
古代の兜の錏(しころ)は大にして、肩まで覆ひ、頸のくびれなし、猪の頸の如し、
とする説もある(大言海)。
(埴輪・挂甲武人(けいこうぶじん) 正面 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E8%BC%AA_%E6%8C%82%E7%94%B2%E6%AD%A6%E4%BA%BA)
(埴輪・挂甲武人(けいこうぶじん) 背面 仝上)
(伝・足利尊氏所用の白糸褄取威大鎧・兜 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8E%A7より)
確かに、中世の大鎧と比較すると、そう見えなくもないのだが。
因みに、「しころ」は、
錣、
𩊱、
錏、
と当て、
兜の鉢の左右から後方に垂れて頸をおおう、革または鉄札(てつさね)で綴るのを常とする。その鉢についた第一の板すなわち鉢付の板から菱縫の板までの枚数により、三枚兜、五枚甲などといい、その形状で、割錏(わりしころ)、饅頭錏(まんじゅうしころ)、笠錏(かさじころ)などの名がある、
とある(広辞苑)。「菱縫(ひしぬい)」は、
裾板の横縫の上を、×型に赤革または赤糸で綴じつけた飾り縫い、
で(広辞苑)、
札板(さねいた)の最下の板は横縫のかわりに、畦目綴(うなめとじ)と菱綴の連続にするので、菱縫の板といい、この菱綴を菱縫という、
とある(図録日本の甲冑武具事典)。
(古製の菱縫 図録日本の甲冑武具事典より)
(戦国期の兜の錣 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9Cより)
「猪頸に着なし」の逆に、
しころをかたぶけよ、うちかぶとをいさすな(平家物語)、
と、
錣を傾ける、
とあるのは、
兜を少し前に俯せて、敵の矢を避けること、
つまり、
戦闘時において兜は通常目深くかぶり、錣(しころ)を前に傾けるようにして内兜を防御するのが、心得とされた、
とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、激戦の中では緒が緩み、錣の重みで次第に兜は後ろに傾き、後ろへずり下がる。それを、
仰兜(のけかぶと)、
という(仝上)。また、
義経、混甲(ひたかぶと)五百余人余騎にて後陣を支ふ(太平記)、
にある「混甲」は、普通、
直兜、
直甲、
と当て、
全員が鎧・甲で身を固める、
意である(兵藤裕己校注『太平記』)。
「豬」(チョ)は、「豕(シ 象形。いのしし、またはブタを描いたもの)+音符者(充実する、太る)」。太ったいのしし。その家畜となったのがぶた。猪は豬の俗字、
とある(漢字源)。別に、
(「豕」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%95より)
会意兼形声文字です(犭(犬)+者(者))。「口の突き出ているイノシシ」の象形と「台上にしばを集め積んで火をたく」象形(「集める、煮る」の意味だが、ここでは、「太る」の意味)から、体の太った「イノシシ」を意味する「猪」という漢字が成り立ちました、
との解釈がある(https://okjiten.jp/kanji1817.html)。
(「猪」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1817.htmlより)
漢字「首」「頸」については、「くびったけ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482240073.html)で触れたように、
「首」(漢音シュウ、呉音シュ)は、
象形。頭髪のはえた頭部全体を描いたもの。抽(チュウ 抜け出る)と同系で、胴体から脱け出したくび。また道(頭を向けて進む)の字の音符となる、
とあり(漢字源)、「頸」(漢音ケイ・ギョウ、呉音キョウ)は、
会意兼形声。巠は機織り機のまっすぐなたて糸を描いた象形文字で、經(経)の原字。頸はそれを音符とし、頁(あたま)を加えた字で、まっすぐたてに通るくび筋、
とある(漢字源)。
参考文献;
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95