敵三方より寄せ懸けりたれば、武士東西に馳せ違い、貴賤山野に逃げ迷ふ。霓裳一曲の声の中(うち)に、漁陽(ぎょよう)の鼙鼓(へいこ 軍鼓)地を動かして来たり(太平記)、
にある、
霓裳一曲、
とは、玄宗皇帝が、
夢に天人の舞を見て作った、
とされる、
霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)、
を指す(兵藤裕己校注『太平記』)、とある。これは、
霓裳一曲を奏しているとき、安禄山が漁陽から軍鼓を打って攻めてきた、
という故事に依っている(仝上)。漁陽は、
隋代に置かれた郡および県名。現在の河北省薊県の地で北京の東北方に当たる。唐代、安祿山が反乱の兵を挙げた所、
である。白居易の「長恨歌」にも、
漁陽鼙鼓動地來(漁陽の鼙鼓(へいこ)地を動(どよ)もして来たり)、
驚破霓裳羽衣曲(驚破(けいは)す霓裳羽衣の曲)、
と詠われている。
「霓裳羽衣の曲」は、
唐の玄宗が楊玉環(楊貴妃)のために作ったとされる曲、
とも、
玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲、
とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%93%E8%A3%B3%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E3%81%AE%E6%9B%B2)。鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』(じっきんしょう、じっくんしょう)にも、
古き目録にも、霓裳羽衣は、壹越調の樂なり、本の名をば、壹越婆羅門といひけるを、同じ帝のとき、天寶年中に、もとの名を改めて、霓裳羽衣となづく、
とある。しかし、宋代初期の伝奇小説『楊太真外伝』によると、
玄宗が三郷駅に登り、女几山を望んだ時に作曲したものである説、
と、
玄宗が、仙人の羅公遠に連れられ、月宮に行き、仙女が舞っていた曲の調べをおぼえて作らせた説、
の二説が記されている(仝上)。
八月望日、唐明皇(玄宗皇帝)、與申天師、遊月宮、寒気逼人、霜露霑衣、過一大門、作玉光中、見一大府、榜曰廣寒清虚之府、少前見素蛾十余人、皓(白)衣乗白鸞、笑舞於廣庭大桂樹下、楽音清麗、上皇帰、製霓裳羽衣局(龍神禄)、
とある(大言海)ところを見ると、既に伝説化しているようである。
安史の乱(あんしのらん 安禄山の乱)以後、国を傾けた不祥の曲であると忌まれ、楽譜も散逸したが、南唐の後主である李煜により復元された(仝上)、とある。
「霓裳」の「霓」は、
虹、
を指し、
虹のように美しく裾を引いたもすそ、転じて、天人、仙女などの衣、
の意(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
「霓」(漢音ゲイ・ゲツ、呉音ゲ・ゲチ)は、
会意兼形声。「雨+音符兒(ゲイ 小さい子供)」、
とあり、「にじ」、転じて「五色」の意(漢字源)で、
雨が降った後に現れる小物体、
という意味らしい(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%93)。「にじ」を、
蛇、
または、
竜、
とみなし、
虹(コウ)、
を「雄」、
霓(ゲイ)、
を「雌」とし(漢字源)、「霓」は、
小形の細いにじ、
とされた(仝上)。
「裳」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、
会意兼形声。尚(ショウ)は、向(空気抜きの窓)から、空気が長く立ち上る事を示す会意文字。裳は「衣+音符尚」で、長い布で作った長いスカート、
とある(漢字源)が、別に、
形声文字です(尚+衣)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「長(ジョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「長」と同じ意味を持つようになって)、「長い」の意味)と身体に纏(まつ)わる衣服の襟元(えりもと)」の象形(「衣服」の意味)から「腰から下を覆う長い衣服」を意味する「裳」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2730.html)。
(「裳」 簡帛文字・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A3%B3より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95