2022年04月05日
知識人
丸山眞男『戦中と戦後の間 1936-1957』を読む。
本書は、
学生生活の最終学年(1936年)から、戦後、私が肺患による長い療養生活を経て漸く社会復帰するに至るまでのほぼ二十年間に、私が発表した論稿を集めた、
もので(あとがき)、『現代政治の思想と行動』と『日本政治思想史研究』所収の論文はのぞき、ほぼ年代順に並べたものである。「書名」は、ハンナ・アーレントの、
過去と未来の間、
にあやかったもの、とある(仝上)。なお、ハンナ・アーレントは、『イェルサレムのアイヒマン』について「アイヒマン」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/405979606.html)で触れた。
本書の巻頭は、学生時代の懸賞論文、ファシズム国家観成立の歴史的経緯を分析した、「政治学における国家の理念」から始まる。その「むすび」で、
今や全体主義国家の観念は世界を風靡してゐる。しかしその核心を極めればそれはそれが表面上排撃しつつある個人主義国家観の究極の発展形態にほかならない。我々の求めるものは個人か国家かのEntweder-Odert(二者択一)の上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまふ中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもさうした関係は市民社会の制約を受けてゐる国家構造からは到底生じえないのである。
と書いた著者の姿勢は一貫している。戦中の、
その後の一切のヨーロッパ思想乃至哲学の摂取の雛型……言ひ換へれば近代日本は一切のヨーロッパ精神を、物質文明を採用すると全く同じ様式で受け取ったのである。受け取られたものは受け取る主体の内側に立ち入って内部から主体を変容する力をもたずに、単に主体に対して外から付加されるにとどまる。内面に沈殿してゐるものは依然それと並んでいはば無関係に存在する(麻生義輝「近代日本哲学史」をよむ)、
秩序を単に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。「独立自尊」がなにより個人的自主性を意味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於いてなにより欠けてゐると見たのは自主的人格の精神であった(福沢に於ける秩序と人間)、
敗戦直後には、
漱石の所謂「内発的」な文化をもたぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し來つたものはそれ以前に現はれたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史主義の幻想にとり憑かれて、ファシズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。さうしてとつくに超克された筈の民主主義理念の「世界史的」勝利を前に戸迷いしてゐる。やがて哲学者たちは又もやその「歴史的必然性」について喧しく囀りはじめるだらう。しかしかうしたたぐいの「歴史哲学」によつて歴史が前進したためしはないのである(近代的思惟)、
戦後については、
権力の手段性が意識されないでそれ自身が目的になってしまい、権力を行使する方もされる方も権力それ自身に価値があるように考える傾向が生まれる。ここに権威信仰が発生するのである。(中略)個人が権威信仰の雰囲気の中に没入しているところでは、率先して改革に手をつけるものは雰囲気的統一をやぶるものとしてきらわれる。これがあらゆる保守性の地盤になっている。……しかしいったん変化が起こりはじめると急速に波及する。やはり周囲の雰囲気に同化したい心理からそうなる。しかもその変化も下から起こることは困難だが、権威信仰に結びつくと急速に波及する。(中略)この現実の時勢だから順応するという心理が日本の現在のデモクラシーを規制している(日本人の政治意識)、
と続くが、戦中の論稿との関連でいうと、ファシズム的抑圧の特徴について、
第一に、それがなんらか積極的な建設や理想目標の達成のための「止むをえぬ害悪」として行われるのではなく、むしろ国内外の反対勢力の圧服ということ自体が目的化しており、そこから容易にこうした反革命なり戦争なりの組織が組織自体として絶対化されるというニヒリズムが発酵するという点、第二に、その抑圧の仕方が、単に反対勢力をつぶすだけでなく、およそ市民の自発的活動の拠点やとりでとなるグループ結成を妨げ、こうして社会的紐帯からきり離されて類型化されたバラバラな個人を「マス」に再組織するという行き方を多かれ少なかれ取る点、この二点にとくにその顕著な特色がみられる……(ファシズムの現代的状況)、
とあり、それは、
ファシズムはファシズムの看板では出現できず、却って民主主義とか自由とかの標語を掲げ、
て、
民主的自由や基本的人権の制限や蹂躙がまさに自由とデモクラシーを守るという名の下に大つぴらに行われようとしている、
と述べている(仝上)。これはアメリカに吹き荒れたマッカーシズムを念頭に置いてのそれだが、今日の日本の状況を正確に射抜いている。
デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成り立っている、
との言葉(仝上)はなお重い。マッカーシズムの犠牲となった「E・ハーバートノーマンを悼む」が本書の最後に置かれていることの意味は、今日なおさら重く感じる。
下からの民主的活動の力を欠く、つまり、民主主義の機能しない社会では、
下からの力が公然と組織化、
されることはない(軍国支配者の精神形態)のだが、民主主義が、戦後七十余年経って鍍金が剥げ、結局主体的な、
血肉にならない、
という今日の日本の社会を象徴するのは、戦後の「戦争責任」そのものが曖昧化されたことに起因するように思う。
天皇のウヤムヤな居据わりこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもつと真剣に考えてみる必要がある(戦争責任論の盲点)、
との言葉は重い。因みに著者は、
天皇の責任のとり方は退位以外にはない、
と断言する。
なお、丸山眞男の、『現代政治の思想と行動』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485574016.html)、『日本政治思想史研究』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481665107.html)については触れた。
参考文献;
丸山眞男『戦中と戦後の間 1936-1957』(みすず書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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