洛中須臾に変化して、六軍翠花(すいか 古代中国で、カワセミの羽で飾った天子の旗)を警固し奉る(太平記)、
にある、
六軍(りくぐん・ろくぐん)、
は、
古代中国で天子の率いた軍、諸侯の軍の対、
と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。
六師(りくし)雷のごとく震ひ(古事記)、
と、
六師(りくし)、
ともいう(広辞苑)。
一軍萬二千五百人、周制天子六軍、諸侯大国三軍(周禮・地官 注)、
とある(字源)ように、
三代の周の制に、一萬二千五百人を一軍とし、其の六箇の軍を、天子の率いる軍とす、
とあり(大言海)、周代の軍制で、天子の統率した六個の軍、
一軍が1万2500人で、合計7万5000人、
の軍隊となる。のち、
晉や唐もこれをまねて、この名称を転用した、
という(精選版日本国語大辞典)。
(西周時代の中国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8より)
諸侯の軍は、
凡制軍、萬有二千五百人為軍、王六軍、大国三軍、次国二軍、小国一軍(周禮・夏官)
と定められていた。
『戦争の中国古代史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481322750.html)で触れたが、西周時代、西の周原、宗周などの王畿に、
西の六師、
がある外に、東の拠点「成周」にも、
成周八師(せいしゅうはっし 殷八師)、
が置かれ、共に正規軍とされ、その他に、服属した国々の兵員から成る、
虎臣、
もあったとされる(佐藤信弥『戦争の中国古代史』)。
(約2500年前の東周期の二輪戦車 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4946/より)
諸侯は、
周においては畿外の地に封建、
され、多く、
侯、
に任ぜられたため、諸侯と呼ばれる。もともとは、
辺境防衛のために配置された武官、
とされ、青銅器に鋳刻された金文によれば、周囲の敵と戦うとき、直属の六師、八師が動員された例はほとんどなく、
王臣や諸侯の兵力、
が駆使された、という(仝上)。
「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250)で触れたように、
「六」(漢音リク、呉音ロク)は、
象形。おおいをした穴を描いたもの。数詞の六に当てたのは仮借(カシャク 当て字)、
とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%AD)が、
象形。屋根の形にかたどる。借りて、数詞の「むつ」の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「家屋(家)」の象形から、転じて数字の「むつ」を意味する「六」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji128.html)あり、「穴」か「家」だが、甲骨文字を見ると、「家」に思える。
(「六」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%ADより)
「軍」(慣用グン、漢呉音クン)は、
会意文字。「車+勹(外側を取り巻く)」で、兵車で円陣を作って取巻くことを示す。古代の戦争は車戦であって、まるく円をえがいて陣取った集団の意、のち軍隊の集団をあらわす、
とあり(漢字源)、「軍団」のように兵士の組織集団をさすが、古代兵制の一軍の意もある。
「勹」は車に立てた旗を象ったもので象形、
とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BB%8D)。別に、
会意文字です(冖(勹)+車)。「車」の象形(「戦車」の意味)と「人が手を伸ばして抱きかかえこんでいる」象形(「かこむ」の意味)から、戦車で包囲する、すなわち、「いくさ」を意味する「軍」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji660.html)。
(「軍」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji660.htmlより)
参考文献;
佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:六軍