2022年04月14日
対峙する力
長谷川宏『ヘーゲル「精神現象学」入門』、
竹田青嗣・西研『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』、
竹田青嗣・西研『超解読! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』、
加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』、
を読み比べてみた。
正直、僕のような哲学の素人が言うのもおこがましいが、手に入るかぎりの『精神現象学』の「入門」書を読み比べて思ったことは、まるで江戸時代の儒学者が『論語』を読み解こうとしていた姿勢にそっくりの、何だろう、偉大なるヘーゲルの『精神現象学』をどう読みこなすか、しかもどう正確に読解しようとするかに懸命で、それに真正面から、思想として対峙しようとする姿勢がまるきり感じられなかった。それって正しい姿勢なのだろうか、という疑問が湧いた。せめても、長谷川氏が、
「ヘーゲルの作品として『精神現象学』しかなかったとしたら、といった妄想がふと脳裡をかすめる。『精神現象学』は、この一冊だけで十分魅力的な書物だとはやはりいえない気がする。大胆で荒々しい、原鉱のような思考は、同時代の無視・無理解に出会ったあと、後代の注目も理解も得られず、歴史に埋もれてしまった公算が大きい。思考の奇怪さは奇怪さのままでは容易に受け入れがたいものだと思う。」(『ヘーゲル「精神現象学」入門』「思考の奇怪さについて」)
とあるのが、まず真っ当な評価なのではないか。流石『精神現象学』の新訳で世評が高いだけのことはある。他の翻訳が悪文の原著に忠実たらんとしてか、日本語としては何を書いてあるか何度も読み直さないといけない、何度読み直しても日本語として理解しがたい拙劣な文章であったのに比べて、少なくとも、理解云々はこちらの知性の問題だが、少なくとも何が書いてあるかはすっと頭に入ってくる翻訳であった。ただ、しかし原文に忠実でない分、文意は通じるが、前後の脈絡が見えなくなるという難点が、時々起こる。これは文脈ごとに「ことば」を変えるためかと思われる。
「バベルの塔」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486413116.html?1649791537)で触れたことと重なるが、『精神現象学』は、一応、
意識の成長の旅、
であり、
意識(感覚的確信→知覚→悟性)→自己意識→理性→精神(精神→宗教→絶対知)、
といった、
意識の経験の道程、
さらに、ヘッケルの、
個体発生は系統発生を反復する、
ではないが、
個人としての成長史、
だけではなく、
人類文化の精神史、
の側面があり、
西洋史、
キリスト教史、
西洋哲学史、
を直接、あるいはメタファとして、またはアナロジーとして駆使し、
精神の在庫調べ、
の趣があり(加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』「序にかえて」)、その知識がないとさらに、論旨が辿りにくいが、そもそも、その背景に、アレゴリカルに取り上げられている、
アンチゴネー、
オイディプス王、
ファウスト、
夜盗、
ドン・キホーテ、
ラモーの甥、
等々は、文脈上、例示として適切なのか。僕のような哲学史や西洋史、キリスト教史等々の門外漢が言ってもナンセンなことは承知の上で言うなら、ヘーゲルの書いている歴史の取り上げ方は、時にマンガチックにすら感じてしまったし、ご都合主義に思える部分も多々あるのだが、それはもちろんメルロ=ポンティのいうような、
小説みたいにおもしろい、
等々と軽々には言えないが、時にマンガチックとしか言いようのない歴史観があり、とてもその時代から見てもおかしな科学観があるのに、
わくわくするような面白さがある、
等々とはとても言えるものではない(仝上)。さらにこの『精神現象学』全体の、まるで、
救済史、
をなぞるような、
絶対知、
を目的とする、
歴史主義的な構造そのもの、
は問題ではないのか(救済史については、『世界と世界史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478347758.html)で触れた)。そう見ると、『精神現象学』を読解し、後のヘーゲルの著作から意味を読もうとする入門書群と比べると、入門書という位置だから仕方がないのは承知の上でいえば、
「ヘーゲルの精神は、論理的な、確固とした、あえて言うならば、昆虫学的精神である。すなわち、多くの突出した肢と深い切れ目と節をもった身体のうちにのみ、そのふさわしい精神の場所を見いだす精神である(差異にこだわるといいたいらしい)。この精神は、とくにかれの歴史の見方と取り扱いのうちにあらわれている。ヘーゲルは、さまざまな宗教・哲学・時代・民族のもっとも突出した差異だけを、しかも上昇する階段的進行においてのみ、固定し、叙述し、共通なもの、等しいもの、同一なものはすっかり背景に退く。かれの見方と方法そのものの形式は排他的な時間だけで、同時にまた寛容な空間ではない。かれの体系は従属と継起を知るだけで、並列と共存についてはなにも知らない。なるほど、最後の発展段階は、いつも、その他の諸段階を自己のうちに取り入れている全体ではあるが、しかし、この最後の段階そのものが一定の時間的存在であり、そのために特殊性の性格をもっているから、それがその他の諸存在を取り入れることは、これからその独立した生命の精髄を吸い出し、これらがその完全な自由の状態においてのみもっている意味を奪わなければ、不可能である。」(フォイエルバッハ「ヘーゲル哲学の批判」)
とか、あるいは、
「ヘーゲルの『現象学』とその究極的成果とにおいて――運動し算出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、ヘーゲルが人間の自己産出を一つの過程として捉え、対象化することを、対立するものとすること、つまり外在化することとして、そしてこの外在化の止揚として捉えているということ、こうして彼が労働の本質を捉え、対象的な人間すなわち現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として把握しているということに他ならない。(中略)近代国民経済の立場にたっている……ヘーゲルは、労働を人間の本質として捉える。彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ないのである。労働は、人間が外在化の内部で、つまり外在化された人間として、対自化することである。ヘーゲルはそれだけを知り承認している労働というものは、抽象的に精神的な労働である。こうして一般に哲学の本質をなしているもの、自己を知る人間の外在化、あるいは自己を思惟する外在化された学問、これらをヘーゲルは労働の本質として捉えている。だから彼は、過去の哲学に対してその個々の契機を総括し、自分の哲学を本当の哲学として述べることができるのである。」(マルクス「ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」)
など、少なくとも、こう読解した等々と言うことはどうでもいいことで、あるいはどの読解が正しいか、などということは、誰も問題になどしていなくて、それとどう対峙し、どう克服して、その上で、自分は何を論じていくかが問題になっているはずである。
少なくとも、ヘーゲルの影響を受け、それを克服すべく葛藤したフォイエルバッハやマルクスよりも更に後世のわれわれが、いまさらただ『精神現象学』を読解するなどに、意味があるのかどうか、読解はプロセスであって、その後に何をするかが問われているのではないか。自分のような老書生が言うのは噴飯物かもしれないが、読解が正確かどうか、正しいかどうかなどどうでもよく、間違っていようと、どうであろうと、それと対峙してその先に、自らの思想的世界を描かなくては意味がない。ヘーゲル死後(亡くなったのは天保二年(1831)である)何年たっているというのか、今頃読解本が流行っているようでは……明治時代の欧化のはじまりではあるまいし、その先へ、それと対峙した先へ行くべきなのではないか。
僕の散漫な理解力のせいかもしれないが、この『精神現象学』全体は、ヘーゲルの、
思考実験、
ではないか、という印象である。それに似たことを、たとえば、
「思えば、『精神現象学』は、既成の枠組を破って奇怪な動きをする思考の否定力と、それに一定の筋道をつけて書物としてまとまったものにする構成力との、せめぎあいの場であった。書きすすむことが、さながら弁証法の実践だったかに思える。」(長谷川・前掲書)、
とか、あるいは、
「ヘーゲルが、ここで……なしとげた積極的なものは、事前と精神とに対して独立している限定された諸概念、普遍的な固定した思惟諸形式が、人間存在の一般的疎外の、したがってまた人間の思惟の、必然的な成果であるということ、またそれゆえヘーゲルがそれらを抽象過程の諸契機として叙述し総括したということである。例えば、止揚された存在は本質であり、止揚された本質は概念であり、止揚された概念は……絶対的理念である。」(マルクス・前掲書)
とあるように、三十代のヘーゲルの知的チャレンジだと考えれば、難渋で、理解不能な文章も、脈絡のつかない論理の筋も、なんとなく納得できる気がしてしまう。マルクスのいっている、
「ヘーゲルは人間を自己意識と等置しているのであるから―—意識以外の何ものでもなく、ただ疎外という思想に過ぎず、疎外の抽象的な、それゆえ無内容で非現実的な表現、つまり否定にすぎない。したがって、外化の止揚ということもまた、あの無内容な抽象の無内容な止揚、つまり否定の否定にほかならない。」(マルクス(城塚登訳)「ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」)
の、
ただ疎外という思想に過ぎず、
というのは、そういう意味ではないかと思ってしまう。
さて、読み比べた結果、思想的な俯瞰度からみるなら、
長谷川宏『ヘーゲル「精神現象学」入門』>加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』>竹田青嗣・西研『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』(『超解読! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』はこの簡略版になる)、
というところか。やはり、僕は、長谷川宏『ヘーゲル「精神現象学」入門』が一馬身以上離していると思う。読解度でみるなら、
加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』>竹田青嗣・西研『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』>長谷川宏『ヘーゲル「精神現象学」入門』
となる。細部の詳述となると、竹田青嗣・西研『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』の方が詳細なのだが、個人的には、詳細にヘーゲルの論旨をなぞればなぞるほど、その筋のマンガチックさが際立ってきて、逆効果だった気がしている。
参考文献;
長谷川宏『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社選書メチエ)
竹田青嗣・西研『超解読! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(講談社現代新書)
加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社学術文庫)
竹田青嗣・西研『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』((講談社選書メチエ)
フォイエルバッハ(松村一人・和田楽訳)「ヘーゲル哲学の批判」(『将来の哲学の根本問題』)(岩波文庫)
マルクス(城塚登訳)「ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」(マルエン選集1『ヘーゲル批判』)(新潮社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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