ゆえに、若干(そこばく)の人を殺し、国土を殞(ほろ)ぼしつ(太平記)、
官軍、矢の一つをも射ずして、若干(そこばく)の賊徒を征(たいら)げ候ひき(仝上)、
などとある、
そこばく、
は、
大勢、
多くの、
の意であり(兵藤裕己校注『太平記』)、
廻りける勢に、後陣を破られて、寄手若干(そくばく)討れにければ(仝上)、
と、
そくばく、
とも訓ませる。「そこばく」に当てた、
若干(じゃっかん)、
は、漢語であり、
干は一十に従ふ、一の如く十の如しの意、
とも(字源)、
干は、若一、若十の、一と十とを合わせたたるもの、
ともある(大言海)。「若干」は、
若干者、設數之言也。干、猶箇也、若箇、猶言幾何枚也(「春秋演繁露(宋代)」)
と、
若箇(じゃっこ)、
ともいい
数量がそれほど多くなく、はっきりしないこと、
いくつか、いくらか、
いかほど(幾許)、
の意(漢字源)で、まさに、
一の如く十の如し、
ある。「そこばく」は、漢語「若干」の意の通り、
源氏殿上ゆるされて、御前にめして御覧ず。そこばく選ばれたる人々に劣らず(宇津保物語)、
と、
数量などを明らかにしないで、おおよそのところをいう、いくらか。いくつか、
の意でも使うが、上述の例や、
そこばくの捧げ物を木の枝につけて(伊勢物語)、
と、
数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす、
意で使い(精選版日本国語大辞典)、漢語「若干」の意をはみ出している。類聚名義抄(11~12世紀)にあるように、
若干・無限・多・多少、そこばく、
と、その意味の幅の広さを示している。
「そこばく」は、
ソコバに副詞語尾クをつけた、
形で、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、「そこば」は、
はねかづら今する妹は無かりしをいづれの妹そ幾許(そこば)恋ひたる(万葉集)、
と、
幾許(そこば)、
と当てる。ために、「そこばく」も、
幾許、
とも当てる(精選版日本国語大辞典)。
「そこば」「そこばく」の、
バはイクバク、ココバのバに同じ。量・程度についていう語、
である(岩波古語辞典)が、この、
そこば—そこばく、
は、
ここだ―ここだく、
ここば―ここばく、
の関係に等しい(精選版日本国語大辞典)。平安時代には、
数量の多いさまを表わす語として、「そこら」「ここら」が和文に用いられるのに対して、「そこばく」は「若干」等の訓読語として用いられた。和文では、「ここら」と「そこら」に「こ━そ」の指示領域に関係した使い分けが見られるが、訓読文では「そこばく」が専ら用いられ、多く「そこばくの」という形で連体修飾語となる、
とあり(仝上)。「ここら(幾許)」は、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、
こんなに数多く、
こんなに甚だしく、
の意の、
夕影に来(き)鳴くひぐらし幾許(ここだ)くも日ごとに聞けど飽かぬ声かも(万葉集)、
と使う「ここだ」(幾許)が、
秋の夜を長みにかあらむ何ぞ許己波(ココバ)寝(い)の寝(ね)らえぬも独り寝(ぬ)ればか(万葉集)、
と使う「ここば(幾許)」に、さらに、
もみぢばのちりてつもれる我やどにたれをまつむしここらなくらん(古今集)、
と「ここら」へと訛り、
ここだ→ここば→ここら、
と転訛したものだが、
平安時代末から中世にかけては、「ここら」「そこら」の用例数は次第に減るが、「そこばく」は引き続き用いられ、「そくばく」「そこそばく」といった形も生じた、
とある(精選版日本国語大辞典)。
ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、バクはばかり(程度の意、そこはか、いくばく、いかばかり、万葉集「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし」「幾許(いかばかり)思ひけめかも」)にて、そこら、ここら程の意(今も五十そこそこの年などと云ふ、是なり)、又そこば、そくばく、そこだく、そこだ、そこらく、そこら、そきだく、などと云ふも、或は下略し、或は音轉相通じ、意は多少変はれども、語原は同じ(伐(こ)る、きる。踵(くびす)、きびす。撃(たた)く、はたく。いくだ、いくら。斑斑(はだら)、離散(はらら))。又、ここばくとも云ふも、其(そ)、此(こ)と云ふを、此(こ)、此(こ)と云ふにて、意は同じ。ここば、ここだく、ここだ、ここら、こきばく、こきだく、こきだ、など云ふも、前に云へると同例なり、
とある(大言海)ように、「其」「此」と「指示領域に関係した使い分け」(精選版日本国語大辞典)からきているとするのは一つの考えだが、
ここだ(く)→ここば(く)→ここら、
と、
そこば(く)、
いくばく、
とは明らかに音韻的なつながりがある。とするなら、
これほどまでの、こんなにもの意のカクバカリの語形が変化したもの、
と(語源を探る=田井信之)、音韻変化から、関係性を見るのもまた一つの見識である。そのもとは、
斯く許りすべなきものか世の中の道(山上憶良)、
の、
これほどまでに、
こんなにも、
の、
斯く許り、
で、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、
バカリ(許り)は「程度・範囲」(ほど、くらい、だけ)、および「限度」(のみ、だけ)を表す副詞である。カリ[k(ar)i]の縮約で、バカリはバキに変化し、さらに、バが子交(子音交替)[bd]をとげてダキ・ダケ(丈)に変化した。「それだけ読めればよい」は程度を示し、「君だけが知っている」は限定を示す用法である。
ばかり(許り)は別に「バ」の子交[bd]でダカリ・ダカレになり、「カレ」の子音が転位してダラケ(接尾語)になった。
カクバカリ(斯く許り)という副詞は、カ[ao]・ク[uo]の母交(母音交替)、カリ[k(ar)i]の縮約でココバキ・ココバク(幾許)になり、さらに語頭の「コ」が子交[ks]をとげてソコバク(許多)に転音した。すへて、「たいそう、はなはだ、たくさん」という意の副詞である。「ココバクのしゅうの御琴など、物にかき合わせて仕うまつる中に」(宇津保物語)、「この山にソコバクの神々集まりて」(更級日記)。
ココバク(幾許)が語尾を落としたココバ(幾許)は、「バ」が子交[bd]をとげてココダ(幾許)になり、さらに子交[dr]をとげてココラに転音した。「などここば寝(い)のねらえぬに独りぬればか」(万葉)、「なにぞこの児のここだ愛(かな)しき」(万葉)、「さが尻をかきいでてここらの公人(おおやけびと)に見せて、恥をみせむ」(竹取)。「幾許」に見られるココバ[ba]・ココダ[da]・ココラ[ra]の子音交替は注目すべきである。
ココダク(幾許)は、語尾の子交[ks]、ダの子交[dr]の結果、ソコラクに転音した。「このくしげ開くな、ゆめとそこらくに堅めしことを」。
ココラは語頭の子交[ks]]でソコラに転音した。「そこらの年頃そこらの黄金給ひて」(竹取)。
スコシバカリ(少し許り)は、「シ」の脱落、カリ[k(ar)i]の縮約で、スコバキ・ソコバキ・ソコバク(若干)に転音した。ソコバク(許多)とは同音異義語である。「いくらか、多少」の意味で、「そこばくの捧物を木の枝につけて」(伊勢)という。
イカバカリ(如何許り)は、カリ[k(ar)i]の縮約でイカバキになり、イカバクを経てイクバク(幾許)に転音した。「どれくらい、何ほど」の意の副詞として「わがせこと二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(万葉)という。語尾を落としたイクバは、バの子交[bd]でイクダ(幾許)、さらにダの子交[dr]でイクラ(幾ら)になった。すべて万葉集にみえている、
とみる(日本語の語源)のも注目すべきである。
ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、
とされ(岩波古語辞典)、
ここだ(く)→ここば(く)→ここら、
という用例の時代変化と多少の齟齬はあるが、
斯く許り→ココバク(幾許)→ソコバク、ココバ(幾許)→ソコバ、ココダク(幾許)→ソコダク、ココダ(幾許)、
少し許り→スコバキ→ソコバキ→ソコバク(若干)、
といった大まかな音韻転訛の流れをみることができる。こう見ると、「其」「此」は、音韻変化の結果そうなったのであって、語源ではないということになるのだが。
「若」(漢音ジャク・ジャ、呉音ニャク・ニャ)は、
象形。手を挙げて祈る巫女を象る物であり、「艸」(草)とは関係ない。髪をとく、体の柔らかい女性を象る(藤明保堂)。手や髪の部分が、草冠のように変形した。後に「口」を添え、「神託」の意を強くした(藤堂)、又は、神器を添えたものとも(白川静)。神託から、「かく」「ごとし」の意が生じる。「わかい」巫女が祈ることから、「わかい」の意を生じたものか。音は、「女」「如」「弱」「茹」等と同系で、「やわらかい」の意を含む、
と、字源説が微妙に違い(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5)、「巫女」由来は同じだが、
象形。しなやかな髪の毛をとく、からだの柔らかい女性の姿を描いたもの。のち、草冠のように変形し、また口印を加えて、若の字になった。しなやか、柔らかく従う、遠まわしに柔らかく指さす、などの意を表す。のち、汝(ジョ)・如(ジョ)とともに「なんじ」「それ」を指す中称の指示詞に当てて用い、助詞や接続詞にも転用された(漢字源)、
象形。もと、髪をふり乱し、両手を前にさし出した巫女(みこ)の形にかたどり、のち、口(お告げ)が加えられた。神託を受けた者、転じて、かみ(神)、「したがう」の意を表し、借りて、助字に用いる(角川新字源)、
象形文字です。「髪をふりだし我を忘れて神意を聞き取る巫女」の象形から、神意に「したがう」を意味する「若」という漢字が成り立ちました。また、「弱(ジャク)」に通じ(同じ読みを持つ「弱」と同じ意味を持つようになって)、「わかい」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji947.html)、
と、微妙な解釈の違いがある。
(「若」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5より)
「干」(カン)は、「野干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485021299.html)で触れたように、
象形。二股の棒をえがいたもの。これで人を突く武器にも、身を守る武具にも用いる。また突き進むのはおかすことであり、身を守るのは盾である。干は、幹(太い棒、みき)、竿(カン 竹の棒)、杆(カン てこ)、桿(カン 木の棒)の原字。乾(ほす、かわく)に当てるのは、仮借である、
とある(漢字源)。別に、
象形。二股に分かれた棒で、攻撃にも防御にも用いる。干を持って突き進みおかす。「幹」「竿」「杆」「桿」の原字。「幹」の意から、「十干」や「肝」の意を生じた。「乾」の意は仮借であり、「旱」「旰」は、それを受けた形声文字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B2)、
象形。先にかざりを付けた盾(たて)の形にかたどる。ひいて、「ふせぐ」「おかす」意を表す(角川新字源)、
などの解釈もある。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95