2022年05月06日
精神現象学のバックボーン
ヘーゲル(長谷川宏訳)『哲学史講義』を読む。
本書は、
晩年の聴講生のノート三回分、
をもとにしたヘーゲルの哲学史講義である。その哲学を吟味していくプロセスは、まるで、『精神現象学』の流れを辿り直すように見えてくるところがある。逆にいうと、『精神現象学』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486413116.html)がこうした哲学の歴史ををふまえた著述だったことが、よりはっきりと見えてくるように思える。
哲学史なのだが、ヘーゲルは、わざわざ、
哲学史とはなにか、
と、
無尽蔵で多種多様な諸国民の精神文化について、そのどこまでを哲学史から除外すべきか、
哲学史の時代区分の必然性を示す、
の三点を論ずるための序論を設けている(序論)。厳密な定義を怠らないヘーゲルらしいといえばヘーゲルらしい。そして、
哲学史は、理念の発展の体系としてとらえられないかぎり、学問の名に値しない、
し、
具体的な哲学理念は、潜在的にふくまれるさまざまなちがいを顕在化させつつ、みずから発展していく活動、
だとして、
哲学史をどう扱うか、
について、
①哲学史の全体が内部に必然性のある一貫した歩みだということ、内部に理性をもち、理念に導かれた歩みである、
②哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている、
③それぞれの原理は、一定期間、時代を支配し、その形式のうちに世界観の全体(それが哲学体系と呼ばれるものですが)が述べつくされている、
④哲学史は歴史にちがいないけれど、哲学の業績は、過去の像として記憶の殿堂に安置されているだけでなく、いまなお、それが生みだされたときの新鮮さを失わないで目の前にある、
といい、
哲学そのものにおける理念の組み立ての順序と、哲学的な概念が時間のなかにあらわれる順序とはべつものだと思われるかもしれないが、両者は全体としては同じ順序をなします、
と、まるで、ヘッケルの、
個体発生は系統発生を反復する、
のような言い方をし、だから、
のちの時代の前進した哲学は、その本質からして、それ以前の思考する精神の働きの結果であり、それは、その土台から切り離されて独立するものではなく、以前の立場からの要請と働きかけのもとになりたつ、
それ故に、
最初の哲学はもっともまずしく、もっとも抽象的、
だからといって、
作品にはあくまで歴史的に立ちむかうべきで、直接そこに示されている考え以外のものをおしつけてはならない、
のであり、
あらゆる哲学は、まさに特定の発展段階の表現であるがゆえに、その時代に帰属し、時代の制約にとらわれている、
と、『精神現象学』同様、歴史主義的である。
哲学と宗教は、普遍的で絶対的な理性という同じ土台の上に立ち、同一の対象をもつ、
だけに、哲学との境界で難しいのは、宗教との関係で、
神をどうとらえるか、
神とは何か、
は、ずっと大きな底流になっているし、
スコラ哲学、
のような神学と哲学の「混合」(ヘーゲル)もある。
哲学は、宗教とちがって、思考する意識という形式において対象と関係します。しかし二つの分野のちがいを、哲学には思考があるが宗教にはそれがないといったように、あまりに抽象的にとらえてはならない。宗教にも観念があり、普遍的な思想がある。むしろ両者はきわめて近い位置にある、
のである。で、結局、哲学史は、
神話、
宗教の芸術的表現、
宗教の内部に見出される哲学、
を除き、
哲学は本質を認識するものだといわれる。肝心なのは、なにかの本質がそのなにかの外にあるのではないということです。わたしの精神の本質はわたしの精神そのもののなかにあるので、外にあるのではない、
というところに落ち着く。
そして、哲学の始まりを、
思考は自立し、自由に存在し、自然から解き放たれ、直観への埋没から身をひき離さねばならない。思考は自由な思考として自己のうちにはいっていかねばならず、そのとき自由がしっかりと意識される。だとすれば、哲学の本来のはじまりは、絶対者がもはやイメージとして存在するのではなく、自由な思想が絶対者を思考し、絶対者の理念をとらえるとき、いいかえれば、ものの本質として認識された存在(それは思想そのものでもありうるのですが)が絶対的な全体でもあり、万物の内在的本質でもあるものとしてとらえられたとき、つまり、存在がかりに外的存在のように見えても、にもかかわらず思想としてとらえられたとき、そのときが哲学のはじまりです、
とし、全体を三期に分けた。
第一期は、紀元前550年のタレスから新プラトン派の哲学(紀元485年に死んだプロクロス)を経て、紀元529年の異教哲学の諸施設(のちにキリスト教に流れこむ。キリスト教内の多くの哲学は新プラトン派の哲学を基礎とする)の滅亡までのおよそ1000年、
第二期は、6世紀から16世紀まで、中世の時代。スコラ哲学の時代、歴史的にはアラビアやユダヤの哲学もここにはいるが、中心はキリスト教会内部の哲学で、これまた1000年以上、中世を超えて生きたブルーノやヴァニニやラムスはやはり中世の人でしたが、実をいえば宗教改革とともに第三期がはじまったともいえます、
第三期は、近代の哲学。はっきりと形を取るのは30年戦争以後に、ベーコン、ヤコブ・ベーメ、デカルト(「われ思う、ゆえにわれあり」以後のデカルト)から、シェリングまで、第三期は200 年ほど、いまなおあたらしい哲学といえます、
と。とくに、ギリシャ哲学は、新プラトン派まで含めると、第三巻の半ばまで、本書の過半を占めているのが特徴だが、やはり第四巻を占める「近代の哲学」が読み応えがある。「近代の哲学」は、
思考の世界と存在する宇宙を分離する中世の立場を超えて、この二つの領域を対立するものととらえ、その対立を克服しようとする。したがって、主要な関心事は、対象の真理とはなにかを思考することではなく、対象の思考と把握を思考すること、つまり、前提された客観の意識化にほかならぬ、主客の統一過程を思考することにあります。
とし、
思考を原理とした点で、まさに近代哲学の真の創始者、
であるデカルトから、
カント哲学を完成させた、
フィヒテ、そのフィヒテを乗り越えようとしたシェリングまで、その対立と継承の流れがよく見える。それは、
デカルトとスピノザにあっては思考と延長が二つの側面をなしています。デカルトはこの二つを神において統一しますが、統一のしかたは概念的ではありません。スピノザも二つを神において統一しますが、スピノザのとらえる神は運動のない実体であって、自然や人間がこの実体から発展してきたものだといっても、それは名ばかりです。のちになって、統一の形式が、一部はさまざまな学問において、一部はカント哲学において、あきらかにされます。そして最後に来るフィヒテの哲学において、統一の形式そのものが主観性として取りだされ、主観性からすべての内容が出てくるとされます。いま必要なのは、色あせた皮肉や恣意に到達したかに見える主観性という無限の形式を、その一面性から解き放って、客観性や実体性と統一することです。いいかえれば、スピノザの実体を不動のものとしてではなく、内部に活動をもつ知的な形式としてとらえること、その形式からして必然的に自然を生みだす力であるとともに、知や認識の力でもあるのをとらえること、それが必要とされている。そこに哲学の課題がある。スピノザの形式的統一でも、フィヒテの主観的全体性でも不十分で、無限の形式をもつ全体性が求められている。
と簡潔に要約されるが、ここには、ヘーゲルがそれを成し遂げたという俯瞰する視点からの記述に見える気がしてならない。
「むすび」で書く、
おのれを認識し、おのれを発見するという精神のこの労働、この活動こそが、精神そのものであり、精神の生命です。この労苦の結晶が、精神みずからがつかんだ精神の概念であって、哲学史は、それこそが歴史における精神の意志であった、ということを明晰に洞察します、
がヘーゲルの結語といっていい。こう締めくくる。
哲学史全体を締めくくる結論としていえるのは、一、どの時代を取っても、ただ一つの哲学しかなく、同時代の複数の哲学説は、一つの原理から必然的に出てくる複数の諸側面をあらわすものであること。二、哲学体系の変遷は偶然におこるものではなく、哲学の必然的な発展段階を示すものであること。三、一時代の最後の哲学はこの発展の成果であり、時代の精神がみずから意識するに至った真理の最高形態を示していること。したがって、最後の哲学は以前の哲学のすべての段階をうちにふくむもので、以前のすべての哲学の結実であり結論です。
と。そして、シェリングを語った後、
わたしたちの考察すべき最終の、興味深い、真実の、哲学形態を見おわったことになります。真理が具体的なものであり、客観と主観の統一であるという理念そのものは、シェリングから引きだすことができる。それぞれの段階が体系のなかでそれぞれに形態をあたえられ、最終段階では、形態の全体があたえられます。シェリングの第二の功績は、その自然哲学において、自然のうちに精神の形態があるのを証明したことです。電気や磁気は、理念ないし概念が外的な形を取ったものにほかならない。シェリング哲学の根幹は、内容ないし真理が問題とされ、これが具体的にとらえられる点にある。シェリングの哲学には、深遠な哲学的内容が備わっていて、その内容は、哲学史の全体にわたって問題とされてきたものです。思考は自由で自立しているが、抽象的ではなく、具体的な内容をもち、自己を世界として、それもたんなる知的世界ではなく、知的かつ現実的な世界としてとらえます。自然の真理が、自然自体が、知的世界なのです。こうした具体的な内容をシェリングはとらえました。
欠点は、この理念が、そして、理念のこまかい内容とその内容の全体(観念界と自然界の全体)が、内的な必然性をもつものとして概念的にとらえられ、展開されることがない点にあります。シェリングの形式には、論理的な発展と、進行の必然性が欠けている。
と述べるヘーゲルには、それを成し遂げたのは自分だという暗々裏の自恃が垣間見える。『精神現象学』をなぞるようだという本書の印象は、『精神現象学』の絶対知にたどり着いたものが、ふたたび新たな経験をし直しているという雰囲気があるせいなのかもしれない。
本書は、シェリングで終わっているが、A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475045121.html)は、ヘーゲルで終える。そこで、シュヴェークラーは、ヘーゲルは、その方法によってその先行者と根本的にちがっている、とする。
絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなく発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なもの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別――といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別――へ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、おのれが絶対者へ付加するのではなく、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者の単なる契機であることを示さなければならない。
つまり、ヘーゲルの方法は、
各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そして第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者の統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分に含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。
だから、ヘーゲルの方法とは、
絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生まれる諸契機の体系である。この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へと進んでいく。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動、
である、と。そういえば、「本書」でも、哲学史を、
具体的な哲学理念は、潜在的にふくまれるさまざまなちがいを顕在化させつつ、みずから発展していく活動、
と見ているのである。ゲーテではないが、
われわれは知っている物しか目に入らない、
のかもしれない。
参考文献;
G・W・F・ ヘーゲル(長谷川宏訳)『哲学史講義(全4巻)』(河出書房新社)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
G・W・F・ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学(世界の大思想第12巻)』(河出書房)
G・W・F・ヘーゲル(長谷川宏訳)『精神現象学』(作品社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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