2022年05月16日
言語化の限界
ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』を読む。
本書について、ウィトゲンシュタインは、
「ここに表されている思想ないしそれに類似した思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。」
と書く。その意味では門外漢には、分からないことだらけなのもやむを得まい。
かなり前、本書と『哲学探究』を読んだとき、うろ覚えだが、
ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、
というフレーズが心に残っている。しかし、この意味は、本書の論旨とは180度違う気がする。似た言い回しは、
「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」
だが、これは、
言語化の限界、
を言っているのであって、
もっている言葉によって見える世界が違う、
とは、真逆である。たぶん、『哲学探究』の、
~として見る、
つまり、
同じ空を見ていて、ケプラーは、地球が回っていると見、ティコ・ブラーエは、太陽が回っていると見る、
あるいは、同じく、
木から林檎が落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を見、他人にはそうは見えない、
のは、われわれは、
知っていることを見ている、
つまり、
知の函数として見る、
という意味だからだ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/view04.htm)。
本書の主張は、
「世界のあり方は、命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によって、はじめて構成されるからである。」
「命題は現実の像である。なぜなら、命題を理解するとき、私はその命題が描写している状況を把握し、しかもそのさい意味の説明を必要としたりはしないからである。」
にみえるように、
言語は世界を写す像である、
として、では、
どれだけ世界を言語化できるか、
であるように見える。しかし、読みつつ感じた違和感は、
事実の配列を言語に置き換えても、実は何一つ現実を捉えたことにはならないのではないか、
という思いであった。とりわけ、日本語は、
状況依存型、
である。言葉に置き換えられない、
余韻、
余白、
余情、
などこそが、現実なのではないか。多少センチメンタルかもしれないが、論理構造に置き換えても、
事柄のつながり、構造、
だけが、置き換えられるだけではないか、という思いであった。因みに、その「論理形式」「論理空間」については、
「論理形式ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちに現れうるか、その論理的可能性の形式のことである。」
「命題はその意味〔すなわち論理空間における論理的領域〕を示す。」
「論理は自分で自分自身の世話をみるのでなければならない。ある記号が〔構成〕可能であるならば、それは同時に表現としても成立しているのでなければならない。論理においては、可能というだけでそれは認可されているのである。(「ある記号 が〔構成〕可能であるならば、それは同時に表現としても成立しているのでなければならない。論理においては、可能というだけでそれは認可されているのである。」
等々と定義する。だから、
「明らかに、『Aはpと信じている』『Aはpと考える』『Aはpと語る』は、もとをたどれば『「p」はpと語る』という形式となる。そしてここで問題になるのは、事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。」
では、例えば、時枝誠記の日本語の風呂敷構造で、
という表現の示しているのは、「桜の花が咲いてい」る状態は過去のことであり(〃いま〃は咲いていない)、それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され、語っている〃とき〃とは別の〃とき〃であることが表現されている。そして「なァ」で、語っている〃いま〃、そのことを懐かしむか惜しむか、ともかく感慨をもって思い出している、ということである。この表現のプロセスは、
①「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、
②話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、
③「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、④「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、
という構造になる、
のとよく似ている(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm)。
「A=p」と信じている
という構造を、
事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである、
ととらえることで、ウィトゲンシュタインは、事実と認識との問題ではなく、
事実相互の対応関係、
に置き換えている。しかし、「 」の中のことは事実ではない。つまり、認識側の事実理解に過ぎない。こうした主観の中の「事実」、想像の「事実」は「事実関係」としては捉えきれない。しかも、こうした主観の延長線上に、価値観や倫理観がある。
「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。」
のであり、
「命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない。」
のである。で、結局、
「語りうること以外は何も語らぬこと。」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
となる。しかし、本書で、
「視野のうちに視野の限界は現れない。」
は、後期、
視野の限界が視野である、
という言い方の変わるような気がする。つまり、真逆に、
われわれは知っている物しか目に入らない(ゲーテ)、
のであり、
ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、
とはそういう意味ではないか、と。ならば、
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」
とは言わないだろう。たぶん、
私の言語の限界が私の世界になる、
というだろう。
参考文献;
ウィトゲンシュタイン;(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』(岩波文庫)
N・R・ハンソン(野家啓一・渡辺博訳)『知覚と発見』(紀伊国屋書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください