柳田國男『妖怪談義』を読む。
本書は、
妖怪談義、
かはたれ時、
妖怪古意、
おばけの声、
の、
妖怪論、
のほか、
川童、
ザシキワラシ、
小豆洗い、
といった個々の妖怪論、
山姥奇聞、
入らず山、
山男の家庭、
山の神のチンコロ、
大人弥五郎、
じんだら沼記事、
等々といった、後に、
山の人生、
に集約されることになる、
山人、
に関するもの、
一つ目小僧、
一眼一足の怪、
片足神、
等々といった、後に、
一つ目小僧、
に集約されるものが収録されている。ただ、この「一つ目小僧」は、
一本ダタラ、
と呼ばれたり、「一眼一足」の、
山鬼(さんき)・山父(やまちち)、
と呼ばれたりして、
ダイダラボッチ、
や
山人、
ともつながるところがあり、「山の人生」と「一目小僧」とは通底しているともいえる。
本書は、ある意味、こうした、
柳田國男の着眼の在り方、
の見本市のように見える。
面白いのは、いくつか定義をして見せていることだ。それは、取り上げるものの分野を決めていく、つまり混同しないという厳密化の試みにも見える。
たとえば、ひとつは、
オバケ、
と
幽霊、
の区別。「オバケ」は、
出現する場処がたいていは決まっていた。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くわさずにすますこともできた、
し、
相手をえらばず、むしろ平々凡々の多数に向かって、交渉を開こうとしていたかに見える、
のに対して、「幽霊」は、
足がないという説もあるにもかかわらず、てくてくと向こうからやって来た。かれに狙われたら、百里も遠くへ逃げていても追い掛けられる、
し、
ただこれぞと思う者だけに思いを知らせようとする、
とし、「幽霊」は、
丑みつの鐘が陰にこもって響く頃、
出るが、「オバケ」は、
都合のよさそうなのは宵と暁の薄明かり、
になる。
人に見られて怖がられるためには、少なくとも夜ふけて草木も眠るという暗闇の中へ、出かけてみた所が商売にはならない、
から、もし、
たまたま真っ暗な野路などをあるいていて、出やしないかとびくびくする人は、もしも恨まれるような事をした覚えがないとすれば、それはやはり二種の名称を混同しているのである、
と(妖怪談義)。だから、
たそがれ(誰ぞ彼)、
かはたれ(彼は誰)、
の時分を、
おおまがとき(大禍時)、
おもあんどき(おもわぬ時)、
などと、黄昏の薄暗き時刻を、
怪あり、
と、警戒したのではないか。なお、逢魔が時(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html)、「たそがれ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html)については、触れた。
河童が水の神から妖怪に零落したように、
妖怪とは神が零落したもの、
つまり、
前代信仰の零落した末期現象、
が「妖怪」なのだが、小山聡子『もののけの日本史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480217461.html)では、
モノノケ、
と、
幽霊、
怨霊、
妖怪、
を区別していた。古代、モノノケは、
物気(もののけ)、
と表記し、多くの場合、
正体が定かではない死霊(しりょう)の気配、もしくは死霊、
を指し、
生前に怨念をいだいた人間に近寄り病気にさせ、時には死をもたらすと考えられていた、
のである。少なくとも、中世までは、モノノケは、
病をもたらす恐ろしい存在であった、
が、幽霊は、
死者や死体そのものも幽霊であり、人間に祟る性質は持たなかった、
とされた。しかし、近世、
幽霊はモノノケと混同される、
ようになり、祟る性質を持つようになる。そして、近世になると、モノノケ、幽霊、怨霊、妖怪、化物が混淆して捉えられ、前代のようには恐れられなくなり、その結果、モノノケは、
物気、
ではなく、
物怪、
と表記されるようになり、
妖怪、
を「もののけ」と訓ませたりするようになる。柳田國男の区別とは、少し異同があるが、「モノノケ」が「物の怪」となり、「幽霊」が人に祟るようになった近世以降の区別、と考えると、江戸初期の怪異譚を集大成した『江戸怪談集』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/487589740.html)を想い合わせると、納得できる気がする。
なお、「オバケ」の名称の特徴を、第一に、
ガゴ・ガモ、
ガモンジ、
カゴ、
ガンゴ、
等々、
ガ行の物すごい音からなっている音声系、第二に、
タンゴウスル、
ベッカッコウ、
ガンゴメ、
等々おばけの顔の表現系、第三に、
ガモン、
カガモ、
ガモチ、
等々「咬もう」と出現したことに由来する音声系とがある(おばけの声)という整理は面白い。
もうひとつ、伝説と昔話の区別を、
昔話はどうせ現世の事でないと思っているから、できるだけ奇抜な又心地よい形にして伝えようとしているのに反し、伝説は今でも若干は信ずる者があるので、怪異をありそうな区域に制限する。従うて時代時代の知能と感覚はこれに干渉し、しばしば改造を加えて古い空想を排除する、
と(妖怪談義)、整理しているのも重要に思う。「伝説」においては、河童も、だいだらぼっちも、おしらさまも、まだフィクションではなく、現実に存在しているのである。
なお、「山の人生」については、『遠野物語・山の人生』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488108139.html)で触れた。
参考文献;
柳田國男『妖怪談義』(講談社学術文庫)
小山聡子『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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