2022年05月31日

無下


無下(むげ)に候し時も、御あと(御あとべ 御床の傍)にふせさせおはしまして、夜中暁、大つぼ(大坪 便器)まゐらせなどし候しその時は(宇治拾遺物語)、

にある、

無下(むげ)に候し時、

は、

病気のひどかった時、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。この

無下、

は、

無気、

とも当てる(日本語源大辞典)、平安末期『色葉字類抄』に、

「無気、ムケナリ、無下同」と「無気」「無下」の字をあてているが、共に同じ意味のことばであるかどうか明らかでない、

が、

中世以降の文献で漢字で書かれる場合、意味の自然さからか、「無下」の表記が普通である、

とある(精選版日本国語大辞典)。多くは、

「むげの」の形で連体修飾、

に用いられ(仝上)、

それよりは下は無し、との意か、或は云ふ、無碍の音、或は云ふ、一向(ヒトムケ)の意と、さらば、ケは清音なり、

とあり(大言海)、

一向(ひたふる)なること、
これより下の無きこと、
一概、
いと、わりなきことのかぎりを云ふ、

とある(仝上)ので、たとえば、

今はむげの親ざまにもてなして扱ひ聞こえ給ふ(源氏物語)、

と、

まったくそうであること、
一向、
ひたすら、

の意や、

天下の物の上手といへども、始めは不堪のきこえもあり、むげの瑕瑾もありき(徒然草)、

と、

まったくひどいこと、
何とも言いようのないこと、

の意や、

故院の御時に、大后の、坊の初めての女御にて、いきまき給ひしかど、むげの末に参り給へりし入道の宮に、しばしは圧され給ひにきかし(源氏物語)、

と、

論外、
問題にならないこと、

の意や、

むげの者は手をすりて拝む(宇治拾遺物語)、

と、

はなはだしく身分の低いこと、
きわめていやしいこと、

の意や、

今迄心をむげにした恨みもつらみも許してたも(近松「重井筒」)、

と、

無駄、
むなしいこと、

の意でも使う(岩波古語辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。「むげ」は、上記の、

それよりは下は無し、との意か、或は云ふ、無碍の音、或は云ふ、一向(ヒトムケ)の意と、さらば、ケは清音なり(大言海)、
一向はひたすらの意であるところからムケ(向)の意か(雅言考)、

とされるが、この名詞「むげ」を、

無下に、
無下の、

と、副詞として使う場合、

むげに今日明日(会いたいと)おぼすに、女がたも……人知れず待ち聞え給ひけり(源氏物語)、

と、

むやみに、
ひたすら、

の意と、

むげに絶えて御いらへ聞え給はざらむもうたてとあれば(仝上)、

と、

すっかり、
まったく、

の意と、

射落とさむことはむげに易けれども(保元物語)、

と、

問題なく、
論外に、

の意と、

むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれ給ふなむ、いとつらき(仝上)、

と、

全然、
ちっとも、

の意と、さらに、

むげに断るわけにもいかない、

と、今日の、

一概に、
通り一遍に、

の意と使われるが、こうした使い方を見てみると、

「無碍に」の意、無下は当て字、否定表現、また否定的な意味の語を修飾して、全然、まるでの意味で使う、

とある(岩波古語辞典)ように、

無下、

と当てる用法には、

下は無し、との意、

あるいは、

一向(ヒトムケ)の意、

のように(大言海)、

一向(ひたふる)なること、

の意で、「ひたぶる(頓・一向)」(古くは「ひたふる」か)の、

態度が一途で、しゃにむに積極的に、あたりかまわず振舞うさまをいうのが原義。後に広く使われて、一途の意、

の(岩波古語辞典)、

親ののたまふことをひたふるにいなび申さむ事のいとほしさに(竹取物語)、

と、

もっぱらそのことに集中するさま、
いちず、
ひたすら、

の意や、

大菩提に於て永(ヒタフルニ)退転せじ(守護国界主陀羅尼経平安中期点)、

と、

完全にその状態であるさま、
すっかり、
まったく、

の意と重なる部分がある(精選版日本国語大辞典・仝上)ことは確かだが、「むげ」に、

無碍、
無礙、

と当て(明末の漢字字典『正字通(せいじつう)』には、碍、俗礙字、とある)、

無障礙、

ともいう仏教用語の、

障りや妨げが無く自由自在であること。融通無礙。阿弥陀仏がもつ十二の光の功徳(十二光)に無礙光がある。また諸仏の智慧を無礙智、理解力を無礙解、弁舌力を無礙弁といい、各々それを法・義・辞・楽説の四つに細分する(法無礙智・義無礙智・辞無礙智・楽説無礙智の如く。これを四無礙智(仏・菩薩のもつ4種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉。法無礙智は教えに精通している、義無礙智は教えの表す意味内容に精通している、辞無礙智はいろいろの言語に精通している、この3種をもって自在に説く楽説無礙智)という)、

とある(世界宗教用語大事典)、

無碍、

意味の影があり、

無下、

は当て字で、

無碍、

をとり、副詞、

無下に、

も、

無下は当て字、

で、

無碍に、

を正とし(岩波古語辞典)、

「無下」は和製漢字、

で、

とらわれることなく自由である、という意味を表す仏語「無碍」が語源、

とする説もあり(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、「無碍」の音から「無下」を当てたということはありえ、

とらわれることなく自由である→問題ない→まったく→いちず→ひどい、

と、意味を野放図に広げているようにも見える。ま、憶説だが、「無下」の意味に「無碍」の意味の翳がある。ただ、とはいえ、

融通無碍、

は、

融通無下、

とは表記できないので、

無下、

無碍、

には、今日でも、

無下にする、
無下に扱う、
無下に突き放す、
無下に断る、

の、

手ひどく、
そっけなく、
通り一遍に、

といった意と、

自由無碍、
闊達無碍、

の、

考えや行いにとらわれずに、思うがままにすること、

といった意との意味の差は厳然としてある。

なお「むげ」に、

無価、

と当て、

むか、

とも訓ませるのは、

無価の香を焚きて、もろもろの世尊に供養じ奉る(栄花物語)、

と、

価値をもってはかることができないほど貴重なこと、

の意であり、仏教用語である。転じて、

無価の大宝、

というように、

莫大、
至大、

の意でも使う(広辞苑・大言海)。

「無」 漢字.gif

(「無」 https://kakijun.jp/page/mu200.htmlより)

「無」(漢音ブ、呉音ム)は、「無作の大善」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485585699.htmlで触れたように、

无、

とも書き、

形声。原字は、人が両手で飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ・ム)の原字。無は「亡(ない)+音符舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、

とあり(漢字源)、

音を仮借したものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1
もと、舞(ブ)に同じ。借りて「ない」意に用いる。のち舞とは字形が分化し、さらに省略されて無の字形となった(角川新字源)、
「人の舞う姿」の象形から「まい」を意味していましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「ない」を意味する「無」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji730.html

等々とあり、「舞」を略して借字したということのようだ。

「下」 漢字.gif

(「下」 https://kakijun.jp/page/0301200.htmlより)

「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、「下火(あこ)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485809024.htmlで触れたように、

指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、

とある(漢字源)が、

指事。高さの基準を示す横線の下に短い一線(のちに縦線となり、さらに縦線と点とを合わせた形となる)を書いて、ものの下方、また、「くだる」の意を表す、

ともある(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8B)。

「碍」 漢字.gif


「碍」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、

会意。「石+得(みつかる)の略体」で、行く手をさえぎるように見える意志を表す、

とあり(漢字源)、

「礙」の俗字、

とある(字源)。

「礙」 漢字.gif


「礙」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。疑はためらって足を止めること。礙は「石+音符疑」で、石が邪魔して足を止めること、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:無下 無気 無碍 無礙
posted by Toshi at 03:18| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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