2022年06月06日

過渡


アリス・アンブローズ編(野矢茂樹訳)『ウィトゲンシュタインの講義―ケンブリッジ1932~1935年』を読む。

ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ.jpg


本書は、アリス・アンブローズとマーガレット・マクドナルドの聴講ノートをもとにした、1932~1935年の間のウィトゲンシュタインの講義記録である。この直後から『哲学探究』を書き始めるという意味で、この四年は、

「ウィトゲンシュタインの施策が中期から後期へと成熟していく時期」

にあたる(訳者あとがき)、とされる。

『論理哲学論考』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488074547.html?1652639171は、

「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」

と、

言語は世界を写す像である、

とし、そのために、

「世界のあり方は、命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によって、はじめて構成されるからである。」

と突き詰め、

「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。」

のとなり、

「命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない。」

ので、結局、

「語りうること以外は何も語らぬこと。」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」

へと行き着いた。このシンプルな現実の写像では、アナログの微妙な現実の揺らぎが捉えられるはずもなく、みずから、

「帰結するということがすべての場合に同一であるような計算を与えた。だが、それは誤りだった。」(1932~33年)

と認めた後の、ウィトゲンシュタインの悪戦苦闘が本講義となっている。自問自答するような講義に、自分だったらとてもついてはいけないが、このノートの筆記者のひとり、編者のアリス・アンプローズは、

「この期間はウィトゲンシュタインの哲学において、そしてまた哲学の歴史そのものにとって、革命的な時」

といっている(日本語版序文)。それは、『論理哲学論考』の、

現実の言語化(現実をことばにする)、

から、本書の、

言語のゲーム化(言葉の規則を作る)、

へ、そして『哲学探究』の、

言語の現実化(ことばが世界を成す)、

へと、

ことば、
規則、
認識、

のすべてが180度ひっくり返っていくプロセスの、本書は、まさしく、

過渡、

にある。本書では、

言語ゲーム

という言葉を使い始め、さらにそのルールを、

ゲームの規則、
文法、
文法規則、
方法、
定義、
計算体系、
適用の体系、

とさまざまに言い換えながら、淳淳と説いていく。その微妙な変化を跡づけてみると、まず、

「(チェスの)ある駒を動かす規則が変えられるとき、[それは端的にチェスならざる別のゲームになってしまい、もはや]そのゲームが変化するとも言えなくなるだろう。」(仝上)

「数学において新しい方法を見出すことは、そのゲームを変化させることになる。」(仝上)

「言語ゲームは論理を理解するときの手掛かりを与える。[とすれば、]われわれが命題と呼ぶものは[そうした言語ゲームの多様性に随って]多かれ少なかれ恣意的なのであるから、われわれが論理と呼ぶものもラッセルやフレーゲの考えていたものとは異なった役割を果たすことになる。」(仝上)

とある。この言い方には、『論考』における削ぎ落したような、例えれば、

0と1、

で言い切っていくような鋭角性は見られず、かなり幅広く揺れ動く。まず、

「ある言明が意味をなすことを示すには、それがいかにして検証されうるのか、その言明で何が為されうるのかが言われなければならない。あるモデルに倣って作られているからといって、それだけから、ある文がゲームの一部になるわけではない。われわれは適用の体系を与えねばならない。
 『それの検証は何か』という問いは『いかにしてそれを知りうるのか』のよい言い換えとなっている。そしてこの『いかにしてそのようなことを知りうるのか』という問いは、『その意味は何か』という問いとは無関係だと言う人もいる。しかし、ある答えがその[問われている命題の]意味を与えるのは、その命題と他の命題との関係を示すことによってなのである。すなわち、その命題が何から帰結し、その命題から何が帰結するかを、その答が示すことになる。それはその命題の文法を与える。そして、『それが真であるとはいかなることなのだろうか』という問の求めるものは、この文法なのである。」(仝上)

と、こうして「文法」に焦点が当たる。だが、まだここには、現実との対応の尻尾を引きずっているように見える。

「『ゲーム』という語の定義を与えることが不可能であるように、命題の一般的定義も与ええないのである。なぜならば、われわれがいかなる境界を引こうとも、それは恣意的なものとなるだろうから。われわれは、つねに、特定の事例に即すやり方で命題について語る。というのも、特定のゲームについて語る以上に一般的に命題を語る方法はないからである。」(仝上)

「奇妙なことに、言語をゲームとして考えるとき、語の使用はあくまでもゲームの内側にあるが、他方その意味はゲームの外側にある何ものかを指示しているように思われてしまう。もしそうであるならば、『意味』と『使用』とは等しくないということになるだろう。たが、これは誤解を招くものでしかない。」(黄色本、1933~34)

等々と、すこしずつ、ゲームが自立し、文法は、現実との関係を切って、自立し始める。

「ある仮説に従えば楕円を描くとされているある惑星が、実際にはそうではなかったとしてみよう。われわれはそのとき、その惑星に作用している未発見の別の惑星があるに違いない、というだろう。だが、われわれの軌道の法則が正しいのであり、ただそれに作用している惑星が見つかっていないだけなのだと言うか、あるいはわれわれの軌道の法則の方がまちがっていると言うかは、任意である。ここにわれわれは仮説と文法法則との間の移行を見出す。観察が何であれ、近くに惑星があるのだと言うならば、われわれはこれを文法規則として提出しているのであり、それはいささかも経験を記述していない。」(仝上)

「われわれは命題に対しては実用的であるとか非実用的であるとか言いはしない。『実用的』や『非実用的』という言葉は規則を特徴けるものなのであり、ゲームの規則は真であったり僞であったりするものではない。だが、いまわれわれは仮説に対してこの二組の語の両方とも用いている。ある仮設を誤りであるという人もいれば(他のことがらに修正を加えたくない場合)、それを実用的でないと言う人もいる(他のことがらが修正できると認めた場合)。ある文が仮説として用いられるのか文法規則として用いられるかを決めることは、あるゲームがチェスなのか、あるいは、ゲームのある段階で新規則が導入される点がチェスと異なるようなチェスの変種であるのかを決めることに似ている。その段階に達するまでは、見ただけではいずれのゲームが行われているのかを言うことはできないのである。」(仝上)

規則と仮規則の幅は、チェスかチェスの亜種かの幅になるが、いずれにしても、規則がゲーム(とゲームの仕方)を変える。

「規則に従ってゲームをプレイすることと、たんに遊んでいることとの間にあらゆる種類の中間的事例がある。そしてそれはわれわれの言語においても同様である。ある語の使用を観察したあとで、その規則がはっきりする場合もあり、また、依然としてはっきりしない場合もある。『持ち上げることができる』、『たっぷりした食事をとることができる』、『がまんして退屈な人につきあうことができる』、こうした文における『できる』の使用を考察せよ。人々はこれらのすべてに共通の何かがあると言う。だが、そうではなく、それらの使用に見られる類似性は重なり合っているだけなのである。」(1934~35年 ミカエル祭学期)

この類似性の幅は、後期の「家族」と呼ばれる概念につながっていくように見える。たとえば、

「『……することができる』、『……の仕方を理解している』、『どう続ければよいか知っている』、これらの表現は、(例えば数列の場合)実際的には同じ文法をもっている。1、3、7、15、という数列が与えられ、ある人がその先をどう続ければよいか知っているとしよう。そのとき彼には心的状態やイメージといったものが生じているだろうが、それはけっしてつねに同一なのではなく、類似している、すなわち家族として似ているというものであるだろう。続け方を知っているときに起こっていることは数えきれないほどあり、そのすべてが一つの家族を作っているのである。(中略)そして『AがかくかくのことをすればAは理解しているのだ』とわれわれが正当に言えるという事実は、……(この)文が、定義と同様に、文法規則であることを示している」(仝上)

という。ここにあるのは、もはや、

言語は世界を写す像である、

という切り立った一本杉のような、

言語・世界関係ではなく、まさに、180度ひっくり返ったような、

知っている、
理解している、
できる、

というそれぞれが、

そのすべてが一つの家族を作っている、

のであり、そして、

「規則は観念から帰結するものではない。それは観念を分析しても得られない。規則が観念を構成するのである。規則は語の使用を示している。」(仝上)

こう言い切った時、うろ覚えなので、『哲学探究』で、正確にこうウィトゲンシュタインが書いていたかどうか自信はないが、

ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、

という認識に転換していく兆しが見える。

規則が、観念を構成し、

やがて、

視界、

をも決める。だから、

知っている、
理解している、
できる、

は、類似性の家族をなしながら、

知っている、
のと、
理解している、
のと、
できる、

のとでは、その言葉から見えるものは微妙な差異がある。そこが180度違う所以である。

ただ、まだ、「ゲーム」は、

「そこで、言語のより原初的な例、すなわち私が『言語ゲーム』と呼ぶもの(それはほとんどの場合、『原始的言語』と同義である)を調べてみることはきわめて有意義なこととなる。これは、ちょうど原始的算術がわれわれの算術に対してもつのと同様の関係をわれわれの原語に対してもっている。」(仝上)

というように、言語の文法生成のモデル程度としか位置づけられていない箇所もあり、たとえば、

「命令を遂行する過程と命令の理解とには、同じ多様性があるからである。重要なのはこの多様性の共用なのであり、けっして両者が[見掛け上]類似しているという事実ではない。ここでわれわれが扱っているシステムは三つある。すなわち、(1)言語表現のシステム、(2)像のシステム、(3)行為のシステム。そしてこの三つはすべて同じ多様性をもっている。理解が存するためには、第二のものと第三のものが同じである必要はない。だが、(2)と(3)の事例は同じ多様性をもっていなければならない。かくして、何ものも余計ではない。われわれはここで、言葉から像へと導き、像から行為へと導く投影関係をもっているのである。」(仝上)

というように、言語表現を、

投影関係、

といった関係づけで、「現実を写す」尻尾を引きらなくては整理できていないように見える。『探求』でなら、極端かもしれないが、

言語に(なすべき)行為が見える、

というのではないか。

「論理は数学の命題の一般形式を与えるという考えが打ち壊されるのは、命題に対する、あるいは論理に対する唯一の観念のごときものなどありはしないと見てとられるときである。人は多くのものを命題と呼ぶ。この点を見てとるならば、ラッセルとフレーゲの抱いていた考え、論理とはある対象――命題、関数、論理定項――についての科学にほかならず、論理は動物学のごとき自然科学であって、動物学が動物について語るように、論理はこれらの対象について語るのである、という考えも捨て去ることができるだろう。」(1934~35年 四旬節學期)

という回りくどい説明には、まだ断定しきれていない歯切れの悪さがある。そして、ようやく、

「ラッセルとF・P・ラムジーは、われわれが[偶然に]出くわしうる[あらゆる]可能なことがらのために論理を用意しておくことがある意味で可能であると考え、また、[個々の場面での]分析の結果を受け入れるために、ある[一般的]体系を構成することができると考えた。われわれが二項ないし三項関係――それらに対しては事例をもっている――から始め、さらにまだ事例をもっていない三七項関係に対してもその計算を用意したと主張することは、可能である。[ところが]われわれは、[事例をもっていなかった] aRbの事例を[初めて]見出したとき、いまやaRbが適用されうる現象を見出したのだ、と考えてしまいがちである。だが、われわれが見出したのは、[体系の適用例たる事実ではなく、]ただ、われわれの言語においてaRbのようにふるまう語というにすぎない。aRbの事例が見出される前にも、その語は言語の内に存在しえただろう。ある関係を構成することは、現象を見出すことには依存していない。ある語ゲームを発見することは、事実を発見することとは異なっているのである。」(仝上)

に至って、完全に逆転し始めている。むしろ、

言葉がaRbの現象を(現実に)見出した、

のである。それは、

ある語ゲームを発見することは、事実を発見することとは異なっている、

からなのである。そして、まだ「範例」という言葉を使っているが、

「『愛』という語に内容をあたえるためには、必ずしも愛し合っている二人を発見しなくともよい。見出されるべきはむしろ範例なのであり、そして範例はわれわれの言語の側に属しているのである。範例がその語に意味を与えている、と言ってもよい。だが、いかなる意味で? ゲームを拡大するという意味で。範例を取り入れることによってわれわれはゲームを変える。われわれはその語に意味を与える現象を見出したのではなく、一つの計算を作ったのである。」(仝上)

と、むしろ、

「愛」という言葉が愛し合っている二人を見出す、

のである。例は悪いが、「パワハラ」という言葉を知ったから、

パワーハラスメント、

が見えてくる、ということである。

「(二つの集合の)『Aの数=Bの数』という言明は『一対一対応がつけられていると言うことには意味がある』を意味するものだというのであれば、そのとき同数性の主張は文法の命題ということになり、実在についてはなにも語っていないものとなる。『その要素が幾何学的に対応づけられているならば、10×10=2×50である』という主張は、文法の命題なのである。それは世界についての命題ではない。」(仝上)

つまり、

規則がゲームを定める、

ということ、要は、

そういう文法で世界を見る、

ということなのだ。すでに、『哲学探究』の世界へと足を踏み出している。

なお、『論理哲学論考』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488074547.html?1652639171については触れた。

参考文献;
アリス・アンブローズ編(野矢茂樹訳)『ウィトゲンシュタインの講義―ケンブリッジ1932~1935年』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:15| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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