「祇園」は、
祇陀林(ぎだりん)、
という。
中印度、舎衛城(しゃえいじょう シュラーヴァスティー 古代インドのコーサラ国にあった首都)の南、祇陀太子(ぎだたいし)の園林、頭を取りて祇園と云ひ、須達長者(すだつちょうじゃ)がこの地を買い、広大なる寺を建てたるを、祇陀林(ぎだりん)寺、又祇園精舎と云ふ、須達の異称を、給孤独とも云ふに因りて、給孤独園(ぎっこどくおん)、略して孤独園とも云ふ。これを釈迦に献じたれば、釈迦多く、この園にて説教せりと云ふ、
とある(大言海・広辞苑)。従って、「祇園精舎」は、阿弥陀経に、
舎衛(しゃえい)国祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)、
とあるように、
祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)の略、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E)。「須達」、つまり、
スダッタ(Sudatta 須達多)、
が、
給孤独者、
あるいは、
給孤独長者(アナータピンディカ Anāthapiṇḍada)、
と呼ばれていたのは、
身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、
とあり、元々、釈迦の大口支援者であったらしい(仝上)。
なお、「精舎」は、
サンスクリット語Vihāra(ヴィハーラ、ビハーラ)、
で、
仏教の比丘(出家修行者)が住する修道施設、
つまり、
寺院、
僧院、
のことである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E8%88%8E・岩波古語辞典)。
また、「祇園」には、
祇園精舎、
の意の他に、
行疫神(ぎょうえきしん)である牛頭天王(ごずてんのう)に対する信仰、
である、
祇園信仰、
の意があり、
災厄や疫病をもたらす御霊(ごりよう)を慰め遷(ウツ)して平安を祈願するもので、主として都市部で盛んに信仰された。祇園祭・天王(てんのう)祭・蘇民(そみん)祭などの名で各地で祭りが行われる、
とある(大辞林)。因みに、行疫神(ぎょうやくじん・ぎょうえきしん)とは、
流行病をひろめる神、
で、
厄病神、
ともいい、
疫病神、
疱瘡神、
と同趣の神になり、
疫病(エヤミ、トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され、厄病神も御霊の一つの発現様式、
と見なしていた(世界大百科事典)。なお、「怨霊」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.html)については、触れたことがある。
牛頭天王(ごずてんのう)は、もともと、
祇園精舎(しょうじゃ)の守護神、
であったが、
蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B)、
武塔天神(むとうてんじん)、
あるいは、京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として、
祇園天神、
ともいう(日本大百科全書)。「ごづ」は、
牛頭(ぎゅうとう)の呉音、此の神の梵名は、Gavagriva(瞿摩掲利婆)なり、瞿摩は、牛と訳し、掲利婆は、頭と訳す、圖する所の像、頂に牛頭を戴けり、
とあり(大言海)、
忿怒鬼神の類、
とし、
縛撃癘鬼禳除疫難(『天刑星秘密気儀軌』)、
とある(大言海)。これが、
素戔嗚を垂迹、
としたのは、鎌倉時代後半の『釈日本紀』(卜部兼方)に引用された『備後国風土記』逸文にある、
蘇民将来に除疫の茅輪(ちのわ)を与えし故事による、
とある(仝上)。すなわち、
備後國風土記曰、疫隅國社、昔北海坐志(マシシ)武塔神、南海神之女子乎(ムスメヲ)、與波比爾(ニ)出坐爾(ニ)、日暮多利(タリ)、彼所爾(ニ)、蘇民将来、巨旦将来二人在支(アリキ)、兄蘇民将来甚貧窮、弟巨旦将来富饒、屋倉一百在支、爰仁(ココニ)武塔神借宿處、惜而不借、兄蘇民将来借奉留(ル)、即以粟柄為座、以粟飯等饗奉留(ル)、饗奉既畢、出坐後爾(ニ)、経年率八柱子、還来天(テ)詔久(ク)、我将奉之為報答、曰、汝子孫其家爾(ニ)在哉止(ト)問給、蘇民将来答申久(マヲサク)、己女子與斯婦侍止(サモラフト)申須(ス)、即詔久(ク)、以茅輪令着於腰上、随詔令着、即夜爾(ソノヨルニ)、蘇民與女人二人乎(ヲ)置天(テ)、皆悉許呂志保呂保志天伎(コロシホロボシテキ)、即時仁(ソノトキニ)詔久(ツク)、吾者、連須佐能雄神也、後世仁(ノチノヨニ)疫気在者、汝蘇民将来之子孫(ウミノコ)止云天(トイヒテ)、以茅輪着腰上、随詔令、即家在人者将免止(ト)詔伎(キ)、
とある(釈日本紀)。要は、
北海の武塔天神が南海の女のもとに出かける途中で宿を求めたとき、兄弟のうち、豊かであった弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はこれを拒み、貧しかった兄蘇民将来(そみんしょうらい)は髪を厚遇した。のちに武塔天神が八柱の子をともなって再訪したとき、蘇民将来の妻と娘には恩返しとして、腰に茅の輪を着けさせた。その夜、巨旦将来の一族はすべて疫病で死んだ。神は、ハヤスサノオと名のり、後世に疫病が流行ったときは、蘇民将来の子孫と称して茅の輪を腰につけると、災厄を免れると約束した、
というものである(日本伝奇伝説大辞典)。で、平安末期『色葉字類抄』は、
牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。その名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ、
とあり、
沙渇羅(娑伽羅、沙羯羅 しゃがら)竜王の娘と結婚して八王子を生み、8万4654の眷属神をもつ、
とある(世界大百科事典)。
(牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0より)
『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋(ほき)内伝)』(安倍晴明編)には、
北天竺摩訶陀国、霊鷲山の丑寅、波尸城の西に、吉祥天の源、王舍城の大王を名づけて、商貴帝と号す。曾、帝釈天に仕へ、善現に居す。三界に遊戯す。諸星の探題を蒙りて、名づけて天刑星と号す。信敬の志深きに依りて、今、娑婆世界に下生(げしょう)して、改めて牛頭天王と号す。元は是、毘盧遮那如来の化身なり、
とあり、さらに、
簠簋内傳に、蘇民が事を以て、印度の伝説に基づくとなしたり、然れば、蘇民は、元印度の神にて、疫疾を祓うことを司りしを、両部習合の説、我国に行われて、素戔嗚尊の本地を、牛頭天王となししより、蘇民が事を付会することとなり、遂に、祇園社の摂社として、蘇民が祠を設くるに至りしなるべし、
ということになる(日本百科大辞典・大言海)。
奈良時代から平安時代にかけて天災や疫病の流行が続いたが、それを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする、
御霊信仰(ごりょうしんこう)、
を背景に、それを鎮めるために、
祇園御霊会(御霊会)、
が始まり、
牛頭天王、
が、貞観十一年(869)清和天皇の代、感神院(かんしんいん 八坂神社)に勧請(かんじょう)され、祇園御霊会は、
10世紀後半には京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになり、祇園社の6月の例祭として定着、天延三年(975)には朝廷の奉幣を受ける祭となる。後の祇園祭である。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0)。
祇園社の由来については、
牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市一帯の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社 兵庫県姫路市広嶺山)に移る。其の後、北白川東光寺(岡崎神社 京都市左京区岡崎東天王町)に移る。其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間(877~885)に感神院に移る、
とある(吉田兼倶『二十二社註式』)。また、
託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す(『二十二社記』)とあり、
祇園天神、
婆利采女(ばりさいにょ)、
八王子、
を祭って、承平五年(953)六月十三日、
観慶寺を以て定額寺と為す、
と官符に記され、別名、
祇園寺、
といった(http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html・日本伝奇伝説大辞典)。「祇園天神」とは、
武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、牛頭天王(ごずてんのう)、
のことであり、「婆利采女」とは、
牛頭天王の妃の名。沙伽羅(しゃがら)龍王の三女、
とされる。「八王子」とは、『備後国風土記』逸文にある、
武塔神の八柱の子、
であり、牛頭天王と同一視されているから、
婆利采女との間の子、
ということになる(精選版日本国語大辞典・http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html)のだが、八坂神社、つまり祇園社の祭神、
祇園の神、
は、
素戔嗚尊、
少将井の宮(奇稲田姫命 くしなだひめのみこと)、
八柱御子神(やはしらのみこがみ)、
で、この八柱は、
素戔嗚の五男三女、
とある(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)。ただ、別に、八柱御子神は、
天照大神の五男三女神、
ともある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・大言海)。普通に考えると、素戔嗚尊、奇稲田姫命の子供ということだろう。
「祇」(漢音キ、呉音ギ)は、
会意兼形声。「氏+音符示(キ・シ 祭壇)」で、氏神としてまつる土地神。示(キ)と同じ、
とあり、「神祇(ジンギ)」「地祇(チギ 地の神)」と使う。
祇攪我心(ただ我が心を攪すのみ)、
と、「祗(シ)」や只(シ)と同じに用いる場合、「祇」を「祗」の字と混用したもの、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(示(ネ)+氏)。「神にいけにえをささげる台」の象形(「祖先の神」の意味)と「刃物で目を突き刺しつぶれた目」の象形(「目をつぶされた被支配族」、「人間」の意味)から、人々の「神(かみ)」を「祇」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2620.html)。
「園」(漢音エン、呉音オン)は、「竹園」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486160699.html)で触れたように、
会意兼形声。袁(エン)は、ゆったりとからだを囲む衣。園は「囗(かこし)+音符袁」、
とある(漢字源)。別に、
形声。囗と、音符袁(ヱン)とから成る。果樹・野菜などを植える「その」の意を表す、
とも(角川新字源)、
形声文字です。「周辺を取り巻く線」(「囲(かこ)い」の意味)と「足跡・玉・衣服」の象形(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさまから、「遠ざかる」の意味だが、ここでは、「圜(えん)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を持つようになって)、「巡る」の意味)から、囲いを巡らせた「その」を意味する「園」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji270.html)ある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95