2022年08月01日

現象学的分析


エドムント・フッサール(立松弘孝訳)『内的時間意識の現象学』を読む。

内的時間意識の現象学 (2).jpg


本書は、二部に分かれる。

「第一部は『現象学および認識論の主要部』と題して1904、05年の冬学期にゲッチンゲンで行われた週四時間講義の最後の部分を収録している。(中略)この講義では《もっとも根底的な知的作用、すなわち、知覚、想像、心象意識、記憶、時間直観》が研究されることになっていた。第二部は講義の補遺と1910年までになされた新しい補足的研究から成り立っている。」(編者・序)

本書ではじめて、

時間を主観的に、

つまり、

主観的な時間意識や内在的な意識体験の時間性、

について、

現象学的に、

つまり、

直接与えられた意識(知覚直観、純粋経験・意識)を整理することなく、できるだけ言葉に置き換えて記述していく、

ことで、

意識内部の時間意識、

の道筋を明らかにしようとしているのは。確かだとしても、しかし、それにしても、本書は難解である。

「一般に難解な彼の著作の中でも最も難解を嘆ぜしめるもの」

といわれる(訳者あとがき 高橋里美「フッセルにおける時間と意識流」)。論旨の難解さももちろんあるが、次々と説明抜きで繰り出される「概念」が、とても追尾不能のせいもある。たとえば、

「勿論われわれの誰もが時間とは何であるかを知っている。時間はもっともよく知られたものである。しかしいったんわれわれが自分自身に時間意識について論明し、客観的時間と主観的時間とを正当な相互関係に置いて、そしてどのようにして時間的客観性が、つまり個体的客観性一般が主観的時間意識の内部で構成されるかを意識しようと試みるならば、それどころか、純粋に主観的な時間意識、すなわち時間体験の現象学的内実を分析しようと試みるだけでも、忽ちわれわれは稀有の困難、矛盾、混乱にまきこまれてしまう。」

とある(「序論」)だけでも、「時間」だけで、

時間性格、
客観的時間、
主観的時間、
時間的客観性、
個体的時間性、
主観的時間意識、
時間体験、

等々と繰り出される。文脈で理解できるものもあるが、微妙な含意差は、推測していくほかはない。

たとえば、メロディを聞いている時、

「内在的・時間的客観が恒常的な流れの中でどのように《現出》し、どのように与えられているか」

という、

内的時間意識の現出様式、

を、次のように記述する。

「音が鳴り始め鳴り終わる全過程の統一は、それが鳴り終わったあと次第に遠い過去へ《後退する》。このような沈退の中で私はなおもその音を《把持》し、それを《過去把持》のうちに所持している。そして過去把持が存続する限り、その音はそれ自身の時間性を保持し、同じ音でありつづけるのであり、その持続も変わることがない。私はその音の所与存在の様式に注意を向けることができる。その音とその音が充たしている持続は《諸様式》の連続する中で、《恒常的な流れ》の中で意識されているのである。そしてこの流れの一位相をなす一点が《鳴り始めた音の意識》と言われ、そこでは音の持続の最初の時点が今という様式で意識されている。その音は所与であり、いまとして意識されている。しかしそれがいまとして意識されるのは、その音の諸位相のどれか一つがいまとして意識されている《限り》でのことである。しかし(音の持続の一時点に対応する)時間位相のどれかが顕在的な今であるとすれば(ただし出発点の位相は例外である)、一連の位相は《以前》として意識され、また出発点から今の時点までの時間的持続の広がり全体は経過した持続として意識される。……」

と、明らかに自分の個人的体験とは齟齬のある部分はあるが、フッサール自身が、

「このような記述を行う場合われわれはすでに多少の観念的虚構を用いて操作している。」

と言っているし、

「音が絶対に変わることなく持続するというのは一つの虚構である。」

といっているので、免責されるようだが、そうだろうか。音の持続を前提に立てている構造そのものが、疑わしくなってくるのではないのか。

正直「現象学」による分析の価値を云々する力はないか、少し齧った認知心理学からいうなら、本書が追求する、

知覚、
記憶、
想像、
想起、
心象、

等々は、正に認知心理学の領域であり、たとえば、「記憶」を、「記憶」一言で片づけるのは、いささか問題があり、たとえば、記憶は、

「意味記憶」(知っている Knowには、Knowing ThatとKnowing Howがある)、
「エピソード記憶」(覚えている rememberは、いつ、どこでが記憶された個人的経験)、
「手続き記憶」(できる skillは、認知的なもの、感覚・運動的なもの、生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)、

があるとされるが、「メロディ」の記憶を、

意味記憶、

でみるか、

エピソード記憶、

で見るかでは、その主観的時間意識には差があるはずで、主観的な意識記述は、今日、認知心理学の知見と照合さるべきなのではないか。いかに主観とはいえ、「虚構」の記述に意味があるとは思えない。

参考文献;
エドムント・フッサール(立松弘孝訳)『内的時間意識の現象学』(みすず書房)
J・R・アンダーソン『認知心理学概論』(誠信書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:38| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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