2022年08月18日
果報
身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を切らざるは、ああ果報人かな(宿直草)、
とある、
果報人、
は、
幸運な人、
の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「果報」には、
此の所にて皆死すべき果報にてこそ有るらめ(太平記)、
と、
因果応報、
つまり、
前世での善悪さまざまの所為が原因となって、現世でその結果として受ける種々の報い、
という仏語の意味と、
この道に、二の果報あり。声と身形也(風姿花伝)、
と、
報いがよいこと、
つまり、
幸福なさま、
幸運、
の意とがある(広辞苑・日本国語大辞典)。前者は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れた、サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語である、
業(ごう)、
である。
一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という、
とある(日本大百科全書)、後者の「幸運」の意には、
前世の善行によるこの世でのしあわせ、
そういう含意もある(岩波古語辞典)。
「果報」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444397156.html)でも触れたが、「果報」は、
因縁の応報(むくい)。結果。多くは、善きに云ふ、
とあり(大言海)、
仏教で言う「因縁」と深いつながりがあります。あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。例えば、花が咲くには、種がなければなりません。それが花の因です。しかし、種があっただけでは、花は咲きません。土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。その結果のことを果報と言います、
とある(http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=53)。「因縁(インエン・インネン)」は、
譬へば、穀(もみ)を地に植うれば、稻を生ず。穀は因なり、地は縁なり、稲は果なり。然して、これを行ふことを業(ごふ)と云ふ。因りて、因縁、因果、因業など、人事の成立(なりゆき)は、皆因(ちなみ)あり、縁(よ)る所ありて、果(はて)に至ること、予め定まれりとす、
とある(大言海)。
「果報」は、
サンスクリット語のビパーカvipākaの訳語、
で、
異熟、
とも訳す(ブリタニカ国際大百科事典)。
先に原因となる行為があり、それによって招かれた結果を報いとして得ることをいう。行為は、心に思い、口にいい、身体で行うの3種に分かれ、たとえ身体を動かさなくても行為はあった、と考えられる。この原因と結果とを結ぶものが業(ごう カルマンkarman)で、ときに業がその行為・結果・報いのみをさし、また責任などの全体を含む場合もある、
とされ(日本大百科全書)、仏教では一般に、
善因には善果が、あるいは心の満足という楽果が、また悪因には悪果が、あるいは後ろめたい心という苦果が伴う、
とし(仝上)、
人間として生れたことを、
総報、
男女、貧富などの差別を受ける果を、
別報、
という(ブリタニカ国際大百科事典)とある。またこの世で行なった行為が、この世で報いとなることを、
(順)現報、
次の世に結果が現れることを、
(順)生報、
未来世以後に受けるものを、
(順)後報、
という(仝上)ともある。
「果報」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444397156.html)で触れたことだが、「果報」をこう見てみると、
予め定まれりとす(大言海)、
という意味が重い。だから、
果報は寝て待て、
という諺は、
幸運は自然とやってくるのを気長に待つべきだ、焦らないで、待てばいつかは必ずやってくる、ということ(ことわざ辞典)、
という意味でも、
幸運は人力ではどうすることもできないから、焦らないで静かに時機のくるのを待(広辞苑)て、
という意味でもない。
果報とは、仏語で前世での行いの結果として現世で受ける報いのこと。転じて、運に恵まれて幸福なことをいう。「寝て待て」といっても、怠けていれば良いという意ではなく、人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないということ(http://kotowaza-allguide.com/ka/kahouwanetemate.html)、
という意味も少し違う。
自分の努力だけではどうにもならない因縁に寄るのだから、じたばたしても仕方がない、
つまりは、
寝て待つしかない、
という含意ではないか。俗に、運のよいことを、
果報、
それを受けた者を、
果報者、
とよび、逆に、不幸なことを、
因果(いんが)、
不幸な者を、
因果者、
と称する(日本大百科全書)。また、
運があまりよすぎて、かえって不測のわざわいを受けること、
を、
果報負(かほうまけ)、
といい、また
果報焼(かほうやけ)、
ともいう(日本国語大辞典・広辞苑)。
「果」(カ)は、
象形。木の上に丸い実がなったさまを描いたもので、丸い木の実のこと、
とあり(漢字源)、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)にも、
木實也。从木、象果形在木之上、
とあるが、別に、
会意、「木」と「田」(農地)を合わせて、農地たる木からの産物「くだもの」のこと、
とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9C)。また、「菓(クワ)」の原字。借りて、思いきりがよい、また、「はたす」意に用いる(角川新字源)ともある。
「報」(漢音ホウ、呉音ホ・ホウ)は、
会意。「手かせの形+ひざまずいた人+て」で、罪人を手で捕まえてすわらせ、手かせをはめて、罪に相当する仕返しを与える意を表わす。転じて、広く、仕返す、お返しの意となる、
とある(漢字源)。別に、
会意。「㚔」+「𠬝」。「㚔」は手械(てかせ)の象形、「𠬝」は「服」の原字で「平げる」「服従させる」こと。手械で服従させ、刑罰で「むくいる」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A0%B1)、
会意形声。幸(刑具)と、𠬝(フク)→(ホウ 王命のしるしを手に持つ)とから成り、罪人に罰を加える意を表し、ひいて「むくいる」意に用いる(角川新字源)、
会意文字です。「手かせ」の象形と「右手とひざまず人の象形」(「従う」の意味)から、罪人を刑に従わせる、「さばく」を意味する「報」という漢字が成り立ちました。(転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「むくいる」、「しらせる」の意味も表すようになりました。)(https://okjiten.jp/kanji857.html)、
等々ともある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください