此の寺のきしねに沿ふてしばし休らふに、不立(ふりゅう)文字の霊場に読経の声も幽かに聞こえ(宿直草)、
にある、
不立文字の霊場、
は、
禅宗の寺、経論を行わないので、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)「経論」とは、仏教における、
三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)、
つまり、
仏陀の言葉の集成である経、
修行者のとるべき行動、態度を規定した律、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、
のうち、
仏陀の言葉の集成である経、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、
を行わないという意味である(精選版日本国語大辞典)。それが、
不立文字、
と関わる。禅宗史伝『正宗記(伝法正宗記(でんぽうしょうしゅうき))』(北宋)に、
初祖安禅在少林、不傳経教、但傳心、後人若悟真如性、密印由来妙理深、
とある。
(一行書「教外別伝不立文字」(一休宗純) https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/B-2944?locale=jaより)
「不立文字」(ふりゅうもんじ・ふりつもんじ)は、
禅門は、文字、言句に依りて宗旨を立せず、直に仏の心印を單傳して、自己の心地を開明するを本旨とする、
とある(大言海)。
悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものである、
という意の、
以心伝心、
と、故に、
仏の悟りは経論以外に、別に、佛祖の心印を伝え、以心伝心にて、師弟、相承す、
ということをいう、
教外別伝(きょうげべつでん)、
と共に、
禅宗の立場を示す標語。その故に、禅宗を、
不立文字宗、
不立文字の教、
などともいう(大言海)とある。禅宗の灯史「五燈會元」(南宋代)に、
世尊在霊山會上、拈華示衆、此時人天百萬、悉皆罔措、獨有金色頭陀、破顔微笑、世尊言、吾有正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、附嘱大迦葉、
とあり、禅宗の語録『碧巌録』(宋代)第一則に、
達磨遥観此地有大乗根器、遂泛海、得得而來、單傳心印、開示迷途、不立文字、直指人心、見性成仏、若恁麼未得、辨有自由分、
ともある。
字典『祖庭事苑』(宋代)に、
吾祖教外別伝之道、不立文字、直指人心(ジキシニンシン)、見性成仏(ケンショウジョウブツ)、
とある、
不立文字(文字に(依って)立たない)、
教外別伝(言葉の教え以外で別に伝わる)、
直指人心(人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす)、
見性成仏(仏に成る本性を見る)、
を、
四聖句、
とする(http://www.yougakuji.org/archives/365)とある。
文字に(依って)立たない。誰かがこのように書いているから、と鵜呑みにしない(不立文字)、
禅宗には根本経典がなく、言葉の教え以外で別に伝わる(教外別伝)、
故に、
座禅、
という、
経験・体験・実感、
を重んじ、
人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす(直指人心)、
仏に成る本性を見る。よく自分と向き合う(見性成仏)、
という解釈がなされる(仝上)。
不立文字、
は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わる。
文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない、
という戒めを、唐代の中国の禅僧である慧能がこれを強調し、
禅の真髄、
として重視した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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