助延が郎等どもの陵じ(乱暴する)もてあそびけるに、其の郎等の中に年五十ばかりなるありける郎等の(今昔物語集)、
にある、
郎等、
は、
郎党、
とも当て、
ろうどう、
とも、
ろうとう、
とも訓ませる。
郎は﨟の当字にて、使はるるもの、即ち、武士の黨の者の中にて、然るべきものを老黨と云ひしに起る、其次なるを若黨と云ひき、
とある(大言海)が、
漢語の「郎」は、元来、官職名であったが、転じて、男子・若者の意をも表わした。しかし、従者の意はない、
とあり(精選版日本国語大辞典)、平安時代は、
なほかみのたちにて、あるじしののしりて、郎等までにものかづけたり(土佐日記)、
と、
従者、身分的に主人に隷属する従僕、
の意であったが、平安末期・鎌倉時代の武家社会で、
斉明已乗船離岸、但捕郎等藤原末光(「小右記(985)」)、
院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十人具したり(平家物語)、
と、主人と血縁関係のある家の子と区別して、
主人と血縁関係のない従者、
の意で使った。しかし江戸時代初期に区別が失われ、「とう(等)」と「たう(党)」がトウと同音になった結果、
郎党、
の表記も現われた(仝上)という経緯のようである。
国語辞典『下学集(かがくしゅう)』(室町時代)には、
郎等(らうとう)、
の注に、
等或作徒、
とあり、中山忠親の日記『山槐記』(平安末~鎌倉初期)には、
郎等五人相具、又郎従十人相従(郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身)、
とある(治承三年(1179年)三月三日)。
「家子郎等」という、「家子」は、
主人と血縁関係にある者、
を指し、
自己の所領を持ち独立の生計を営みながら、主家と主従関係で結ばれている者、
である。平安中期~鎌倉時代の武士団は、
惣領家(そうりょうけ)に率いられた庶家(しょけ 血縁者)と、惣領家・庶家それぞれに従属している非血縁者という二つの要素からなっていたが、前者の庶家の長を「家子」とよび、後者を「郎党」(郎等)、ときに「郎従」とよぶのが慣例であった。このため「家子」は、惣領家の従者でなく、惣領とともに所領の共同知行(ちぎょう)に携わる者というのがその本来の姿であった、
が、室町時代以降、所領の嫡子単独相続制が始まると、
家子、
も惣領の扶持(ふち)を受ける従者の一種と化し、「郎党」との区別がしだいにあいまいになっていった、
とある(日本大百科全書)。
「郎等」は、
主人と血縁関係のない従者、
だが、地位の高い者を、
郎等、
低い者を、
従類、
といった。家子・郎等・従類などを合わせて、
郎従(ろうじゅう)、
という言い方もする。
従類、
は、郎党の下の、
若党、
悴者(かせもの)、
を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする(精選版日本国語大辞典)。
(弘安の役の武士団(蒙古襲来絵詞) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9Eより)
若党、
は、
譜代旧恩ノ若党、
とも言われ、悴者(かせもの)と同じく、名字を有し、主人と共に戦う下層の侍。この上に郎党、下に悴者がいる。
中世では年輩の侍(さむらい)である老党に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍、
をいった、
若侍、
を指し(大言海)、
主人の側近くに仕えて雑務に携わるほか、外出などのときには身辺警固、
を任とした。
悴者(かせもの)、
は、
かせきもの、
ともいい、
賤しい者の意で、姓をもつ侍身分の最下位になる。
地侍、
もそれに当たり、若党ともども、主人と共に戦う下層の侍になる。
この下に、
中間(仲間)、
がおり、その下に、
小者(こもの)、
荒子(あらしこ)、
がいる。戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ、
下人(げにん)、
である。身分は、
中間→小者→荒子、
の順。
あらしこ、
が武家奉公人の最下層。姓は持たない。中間の上が、悴者(かせもの)、若党(わかとう)、郎等となる。
中間・小者・荒子、
は、いわゆる、
雑兵、
で、
「あらしこ」は、
嵐子、
荒師子、
とも記し、原義は、
荒仕事をする卑しい男、
で、武士の最下層に位置し、
戦場での土木・大工・輜重などの雑役、死体の片付け、炊事など、
に従事した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%AD%90_%28%E6%AD%A6%E5%A3%AB%29)。天正19年(1591年)の豊臣秀吉の身分統制令では、
奉公人、侍、中間、小者、あらし子に至る、去七月奥州江御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者(『小早川文書』)、
として武士身分に位置付けられ、新規に百姓・町人になることが禁じられている(仝上)。
「小者」は、
雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した、
が、将軍出行のときは数名が随従し、草履(ぞうり)持ちなどをつとめた、
とある(精選版日本国語大辞典)。「中間」は、
仲間、
とも表記し、
身分は侍と小者の間に位する、
のでいうらしいが、
中間男、
ともいい(仝上)、
中間男(はしたもの)の字を略して音読せしもの、
とある(大言海)。いわゆる、
足軽、
に重なる部分がある(「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)で触れた)。奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊(えいしゅん)は、明智光秀の死を、
惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階(やましな)ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間(ちゅうげん)にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此(多聞院(たもんいん)日記)、
と、光秀が中間であったと記している。一族である家子以外の臣下の、
郎等→若党→忰者→中間→小者→あらしこ、
という身分は、室町幕府では、
番衆(ばんしゅう)→走衆(はしりしゅう)→中間→小舎人→小者→雑色→公人(くにん)、
となっており、「番衆」は、
将軍近習、
であり、後に5番編成の直属軍である奉公衆へと発展する。江戸時代にも、
書院番、
奏者番、
使番、
などの将軍近侍・警固の役職に番衆制度として残る。「走衆」は、
将軍が外出する時、徒歩で随行し、前駆や警護をつとめた者、
である。「走衆」は、徒歩で戦う、
徒士(かち)、
つまり若党、忰者に当たるのではないか。
番衆・走衆、
は苗字のある侍である。
(「走衆」 精選版日本国語大辞典より)
ところで、「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)で触れたように、戦国時代の武士団の構成は、
かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた、
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。
とある(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。いわゆる、
雑兵、
に、侍と武家の奉公人(下人)と動員された百姓も混在していたことになる。
なお、「名簿」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489961008.html)で触れたことだが、
罪軽応免、具注名簿、伏聴天裁……但名簿雖編本貫、正身不得入京(「続日本紀」宝亀元年(770)七月癸未)、
と、
古代・中世に、官途に就いたり、弟子として入門したり、家人(けにん)として従属したりする際主従関係が成立する時、服従・奉仕のあかしとして従者から主人へ奉呈される官位・姓名・年月日を記した書き付け(名札)、
を「名簿」という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)が、武家の中で、所謂、代々主従関係を結んでいる譜代の家人(けにん)を中心とした直属の家人の他に、
名簿(みようぶ)を提出するのみのもの、
や、
一度だけの対面の儀式(見参の礼)で家人となったもの、
もあり、
家礼(けらい)、
と呼ばれて主人の命令に必ずしも従わなくてよい、服従の度合の弱い家人がある(仝上)。この場合、「家人」が、
郎等、
若党、
忰者、
のどれを指しているかはっきりしないが、
平将門が藤原忠平に名簿を呈した(将門記)、
とか、
平忠常が源頼信に名簿を入れて降伏した(今昔物語集)、
と見られるので、時代背景によって異なるが、
若党、
忰者、
といった下級武士ではなさそうである。ただ、上記『山槐記』にあった、
郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身、
とあるので、
外様の随身、
とあるのはその意と思われる。
(「郎」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%83%8Eより)
「郎(郞)」(ロウ)は、
会意兼形声。良は粮の原字で、清らかにした米、郎は「邑(まち)+音符良」で、もとは春秋時代の地名であったが、のち、良に当て、男子の美称に用いる、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(良+阝(邑))。「穀物の中から特に良いものだけを選びだす為の器具」の象形(「良い」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、良い村を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「良い男」を意味する「郎」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji1482.html)。
「党(黨)」(トウ)は、「悪党」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485549242.html)で触れたように、
形声。「黑+音符尚」。多く集まる意を含む。仲間で闇取引をするので黒を加えた、
とある(漢字源)が、「黨」の字源には、
形声。儿と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。もと、西方の異民族の名を表したが、(「党」は)古くから俗に黨の略字として用いられていた、
と、
形声。意符黑(=黒。やみ)と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。さえぎられてはっきりしない意を表す。借りて、「なかま」の意に用いる、
の二説あるらしく(角川新字源)、
形声文字、音符「尚」+「人」。部族の一つ、タングート(党項)族を指す。黨の略字(別字衝突)。「なかま」「やから」の意味。意符「人」から通じて略字として用いられるようになったか、
は(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%9A)、前者をとり、
形声文字です(尚(尙)+黑)。「神の気配を示す文字と家の象形と口の象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「堂」に通じ(「堂」と同じ意味を持つようになって)、「一堂に集まった仲間」の意味)と「上部の煙だしに「すす」がつまり、下部で炎があがる」象形(連帯感を示す色(黒)だと考えられている)から、「村」、「仲間」を意味する「党」という漢字が成り立ちました、
は(https://okjiten.jp/kanji1038.html)、別の解釈である。
「等」(トウ)は、
形声。「竹+音符寺」で、もと竹の節、または竹簡の長さが等しくそろったこと。同じものをそろえて順序を整えるの意となった。寺の意味(役所、てら)とは直接の関係はない、
とある(漢字源)。別に、
形声文字、「竹」+音符「寺」(「待」「特」の音と同系)。原義は竹の節がそろっていることで、竹の節々が「おなじ」「ひとしい」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%89)、
形声。竹と、音符寺(シ)→(トウ)とから成る。竹の札をそろえる、ひいて「ひとしい」、転じて、順序・等級の意を表す(角川新字源)、
形声文字です(竹+寺)。「竹」の象形(「竹簡-竹で出来た札」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人がとどまる「役所」の意味)から、役人が書籍を整理するを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ひとしい」を意味する「等」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji532.html)、
などともある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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