多生曠劫
まことに渠(かれ)を討たせ給はん事は、多生曠業(たしょうこうごう)は経るとも、叶ひ給ふべからず(義殘後覚)、
にある、
多生曠業、
は、
輪廻し生を易(か)えて過ごす、きわめて長い歳月、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
多生曠業をば隔つとも、浮かび上がらんこと難し(平家物語)、
も併せて引かれているが、平家物語には、
つくづくものを案ずるに、娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、仏教には逢ひ難し。このたび泥梨(ないり 地獄)に沈みなば、多生曠劫をば隔つとも、浮かび上がらん事難かるべし、
とあり、どうやら「多生曠業」は当て字で、本来、
多生曠劫、
と表記するのが正確らしい。「多生曠劫(たしょうこうごう)」は、
多生広劫、
とも当て、
多生曠劫互に恩愛を結で、一切の男女は皆生々の父母なり(「愚迷発心集(1213頃)」)、
この一日を曠劫多生にもすぐれたるとするなり(正法眼蔵)、
などと、
長い年月多くの生死を繰り返して輪廻する、
意の仏語で、
多生劫、
広劫多生、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。「多生」は、
何度も生をかえてこの世に生まれかわること、
つまり、
多くの生死を繰り返して輪廻する、
意(広辞苑)だが、「多生」は、
今生(こんじょう)、
に対し、
前世、また来生、
の意で(岩波古語辞典)、
来生に生まれ出づること、
今生以外の諸の世界に生まれること、
であり(大言海)、
多生に生まれ出でたる際に結びし因縁、
を、
多生の縁(えん)、
という(「他生」とするは誤用)。
草の枕の一夜の契りも、他生の縁ある上人の御法(謡曲「遊行柳」)、
と、
袖振り合うも多生の縁
も、
互いに見も知りもせぬ人に逢うて世話になるも、皆(多くの生を経る間に結ばれた)因縁による、
という意になる(仝上)。
「曠劫(こうごう)」は、
非常に長い年月、
の意の仏語。
永劫(えいごう)、
と同義。「劫」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485308852.html)で触れたように、「劫」は、慣用的に、
ゴウ、
とも訓むが、
コウ(コフ)、
が正しい(呉音)。
劫波(こうは)、
劫簸(こうは)、
ともいう(広辞苑)。「劫」は、
サンスクリット語のカルパ(kalpa)、
に、
劫波(劫簸)、
と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、
一世の称、
また、
極めて長い時間、
を意味し(仝上)、
刹那の反対、
だが、単に、
時間、
または、
世、
の義でも使う(字源)。インドでは、
梵天の一日、
人間の四億三千二百万年、
を、
一劫(いちごう)、
という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、
四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、
方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、
などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。
「曠」(コウ)は、
会意兼形声。廣(広)は「广(部屋)+音符黄」の形声文字で、広々として何もない広間。曠は「日+音符廣」で、もと黄(輝く光)・晃(あかるい光)と同じ。廣や幌(コウ 外枠が広く中が何もない)と同系の言葉として用い、何もなくて、広くあいている意、
とある(漢字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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