年のころ廿(はたち)ばかりと見ゆ。白き小袿(こうちぎ)に紅梅の下襲(したがさね)、匂ひ世の常ならず(伽婢子)、
とある、
小袿、
は、
女房装束の上着、高貴な女性の平常着、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。古くは、
こうちき、
と清音(精選版日本国語大辞典)で、
婦人の礼服、裳、唐衣(からぎぬ)など着ぬ上に、打掛けて着るものにて、小袖の如く、廣袖にて、裏あり、地は、綾にて、色、種々なりと云ふ、
とある(大言海)。
(「小袿姿」(法然上人絵伝)有職故実図典より)
(「小袿」(近世) 有職故実図典より)
これだとわかりにくいが、「小袿」は、
女房装束の略装、
で、高貴の女子が、
内々に用いた、
とある(有職故実図典)。女房装束のうち、
唐衣(からぎぬ)、
裳(も)、
を除いた、いわゆる、
重袿(かさねうちき)、
に、
袿、
の姿で、
上衣の袿が、下の重袿をおめらかす(ずらす。特に、衣装などの表の端に下襲(したがさね)の端をのぞかせる)ために、特に小袿に仕立てられた、
ので、
小袿、
と呼ばれた(仝上)、とある。
垂領(たりくび)、広袖(ひろそで)形式で、袿(うちき)より袖幅がやや少なく、身丈が短い。袿を数領重ねた上に着て、改まったときには唐衣(からぎぬ)のかわりに小袿を着て裳(も)を腰につける、
ともある(日本大百科全書)。ために、実体は、
表着(うわぎ)、
と変わらず、
表着の時はどこまでも唐衣の下着として用いられたのに対し、小袿は褻の際ではあるが、唐衣と同様、最上の料、
として用いられ、仕立・地質・文様・色目などにも、最上着としての体裁を整え、
表着とは別個の存在、
となり、
袖口・襟・衽(おくみ 着物の左右の前身頃(まえみごろ)に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布)・裾回しに裏地を返しておめらかす他、「おめり」(衣服などの表地の周縁に裏地をずらしてのぞかせる部分)と表地との間に、さらに今一色裂地を挟んで中部(なかべ)とし、重ねの飾りを副えて、小袿の特色とした、
という独特の着方に発展した(有職故実図典)。「小袿」が、こうして、
略儀の最上着、
となることによって、
唐衣、
を略して、代わりに裳を付ける例もあり、『枕草子』に、
裳の上に小袿をぞ著給へる、
と、関白藤原道隆の北の方の着方を載せているが、これは特例のようで、本来は、
五衣(いつつぎぬ 袿を五枚重ねて着る)、
の上に着用するのが本義で、改まった時には、
表着、
をも内に着籠めるのを例にした(仝上)とある。因みに、「五衣」は、
五領襲(かさ)ねて組み合わせた袿、
のことだが、元来、襲ねる枚数に規定はなかったが、平安時代末ごろより五領が適当となり、それを、
五衣、
と呼ぶようになった。五領の配色に趣向をこらし、
五領同色にしたもの、
襲ねる袿の上から順次、色目を濃くしたり淡くしたりした「匂(にお)い」、
うち二領を白にした「薄様(うすよう)」、
五領各異色の組合せにしたもの、
等々いろいろな襲(かさね)色目のものが用いられた(日本大百科全書)らしい。
(小袿は重々しい女房装束にかわって用いられる日常着で、上着の丈の短いのが特色(『春日権現霊験記』(部分)) 日本大百科全書より)
「小袿」姿のよく知られているのは、『春日権現霊験記』第一巻第三段にみえる、
竹林上の貴女の姿、
で、これは藤原吉兼が夢中に拝した春日大明神の神影とされる(仝上)。
なお、近世になると、小袿は袿とまったく同形で、中倍(なかべ)といわれる絹地を、表地と裏地の間に挟んで仕立てたものを称している(日本大百科全書)という。
(「こうちぎ」 精選版日本国語大辞典より)
ちなみに、女房装束(十二単)は、
唐衣(からぎぬ 男性の束帯に相当する女性の第一正装。唐衣はその一番上に着る衣。唐服を模したところから唐衣と言われる。上半身を羽織るだけの短い衣で、背身頃は前身頃の約三分の二の長さ、袖丈より短い)、
表着(うはぎ・うえのきぬ 唐衣の下に着る。袿であるが、多くの袿の一番上に着るのでこの名があり、下に着る五衣(いつつぎぬ)の襲(かさね)を見せるため少し小さめに作られている)、
打衣(うちぎぬ 表着の下に着る袿で、打衣の名称はもと紅の綾を砧でうって光沢を出したことからつけられたが、のちには打つ代わりに「板引き」といって布地に糊をつけ、漆塗りの板に張り、よく干して引きはがして光沢を出すようになった)、
五衣(いつつぎぬ 袿を五枚重ねて着るので五衣とよばれるが、形や大きさは表着と変わらない)、
単衣(ひとえ 形は袿と同じだが、裄と丈が他の袿より大きく長く仕立てられている。常に単衣仕立て)、
長袴(ながばかま 筒形で、裾は後ろに長く引く。表裏とも緋色の精好地(せいこうじ 地合いが緻密で精美な織物の精好織の略称))、
裳(も 奈良時代には腰に巻いたものだったが、平安時代になって衣服を数多く重ね着するようになり、腰に巻くことができなくなったため、腰に当てて結び、後ろに垂れて引くものになった)、
からなり(http://www.wagokoro.com/12hitoe/)、髪型は大垂髪(おすべらかし 下げ髪。髻(もとどり)から先のほうの髪を背側にすべらせ,長く垂れ下げたもの)が基本とある。
「袿」は、
打着の義、上に打掛けて着る服の意、褂とも書くは、掛衣の合字、
とあり(大言海)、類聚名義抄(11~12世紀)に、
ウチキと清音の指示がある。アクセントによると、内着の意ではなく、打ち着(ちょっと着る)の意、
とある(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)も、
袿、宇知岐、布陣の上衣也、
とある。
(女房装束姿(佐竹本三十六歌仙絵) 有職故実図典より)
儀式の時は、この上に唐衣、及び裳を着る。三領、五領、七領と重ねて着る。其の下なるをかさねうちぎと云ひ(これも略してうちぎと云ふ)、最も上なるうちぎは、紅の打衣(うちぎぬ)にて、下に重ぬるに、次第に上なるを短くす、のちに云ふ、五衣(いつつぎぬ)、是なり、
とある(大言海)。
盛夏には、単物(ひとえもの)を数領襲ねる、
単襲(ひとえがさね)、
5月と9月には、
ひねり襲、
といって、表地、中陪地、裏地をそれぞれ縁をよりぐけ仕立てで単物とし、3枚あわせて一領としたものも用いた、
とある(日本大百科全書)。
「袿」(漢音ケイ、呉音ケ)は、
会意兼形声。「衣+音符圭(ケイ=掛 ひっかける)」、
とあり、「うちかけ」の意だが、我が国では、
襲(かさね)の上に来た衣服、
をいい、男子の場合も、
直衣、狩衣の下に着た、
とある(漢字源)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95