我不慮に、木の枝にかかる事、定業未だ来たらぬ故なるべし(諸国百物語)、
にある、
定業、
は、
じょうごう(ぢやうごふ)、
と訓ませ(「ていぎょう」と訓むと、定職の意になる)、
与えられた寿命、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)のは、意訳で、正確には、
苦楽の果報を受けることが決定している業、
また、
果報を受ける時期が決定している業、
をいい(広辞苑)、この意味で、「寿命」の意が出てくるし、
この業によってもたらされた果報、
についてもいう(広辞苑)とある。
決定業(けつじようごう)、
の略とある(日本国語大辞典)。「業」は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れたように、
サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語、
で、
羯磨(かつま)、
とも当てられる(広辞苑)。
もともとクル(為(な)す)という動詞からつくられた名詞であり、行為を示す、
が、しかし、
一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、
業、
という、とある(日本大百科全書)。それはまず素朴な形では、
いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられて、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な術語、
となり、
善因善果・悪因悪果、さらには善因楽果・悪因苦果の系列は業によって支えられ、人格の向上はもとより、悟りも業が導くとされ、さらに業の届く範囲はいっそう拡大されて、前世から来世にまで延長された、
とある(仝上)。
現在の行為の責任を将来自ら引き受ける、という意味に考えてよいであろう。確かに行為そのものは無常であり、永続することはありえないけれども、いったんなした行為は消すことができず、ここに一種の「非連続の連続」があって、それを業が担うところから、「不失法」と術語される例もある、
との解釈(仝上)は、「業」を身に受けるという主体的解釈に思える。仏教では、
三業(身・口・意の三つで起こす「身業」(しんごう)・「口業」(くごう)・「意業」(いごう)をいう)、
といい、
その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを成す、
とし、
善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生む、
としている(広辞苑)。だから、業による報いを、
業果(ごうか)や業報(ごうほう)、
業によって報いを受けることを、
業感(ごうかん)、
業による苦である報いを、
業苦(ごうく)、
過去世に造った業を、
宿業(しゅくごう・すくごう)または前業(ぜんごう)、
宿業による災いを、
業厄(ごうやく)、
宿業による脱れることのできない重い病気を、
業病(ごうびょう)、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD)。で、自分のつくった業の報いは自分が受けなければならないゆえに、
自業自得、
ということになる。
だから、「定業」は、
善悪の報いを受ける時期が定まっている行為、
をいい、『往生要集(984~985)』に、
造五逆不定業、得往生、造五逆定業、不往生(五逆の不定業(果報を受ける時期が決まっていない業)を造れるものは往生することを得るも、五逆定業を造れるものは往生せず)、
とあり、
定業亦能転(じょうごうやくのうてん)、
といい、
その報いを受ける時期が定まっている行為でさえも、よく転じて報いを免れることができるという、
意味で、これを、
菩薩の願い、
とされる(仝上)とある。業を受ける時期の遅速によって、
生きているうちに果を受ける順現業(じゅんげんごう)、
次に生まれかわって果を受ける順生業(じゅんしょうごう)、
第三回目の生以後に果を受ける順後業(じゅんごごう)、
の三種があり、、
三時業、
または、
三時、
という(精選版日本国語大辞典)。「定業」の対になるのが、
すくひ助けたるに、定業の命のびたるは、此の童子に雲泥のちがひあり。助くる迄こそなからめ、非業(ひごう)の命をとらぬ迄のこころ、大人は自らも弁え(伽婢子)、
にある、
非業、
で、
前世の業因によらないこと、
つまり、
業因によって定まっていない果のこと、
で、
非命業、
をいい、
非業の死、
非業の最期、
というように、特に、
前世から定められた業因による寿命の終わらないうちに死ぬこと、
災難などで尋常でない死にかたをすること、
の意で使う。また、
非命、
も同義で、
天の命ずるところでないこと、
特に、
病死、老死、
あるいは、
災害、事故、戦いなどで不慮の死をとげること、
をいい、
横死、
という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。
「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れたように、
象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、
とある(漢字源)が、別に、
象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD)、
象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji474.html)、
ぎざぎざのとめ木のついた台、
が、
のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、
と特定されたものだということがわかる。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:定業(じょうごう)