四大声聞(しだいしょうもん)いかばかり、喜び身よりも余るらむ、我らは後世の仏ぞと、たしかに聞きつる今日なれば(梁塵秘抄)、
とある、
声聞、
は、
教えを受ける者、
修行者、
弟子、
の意とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。「四大声聞」とは、
記別(釈迦が、未来における成仏を予言し、その成仏の次第、名号、仏国土や劫などを告げ知らせること)、
をあたえた(『法華経』授記品)、
摩訶迦葉(まかかしょう)、
須菩提(しゅぼだい)、
迦旃延(かせんねん)、
目連(摩訶目犍連(まかもっけんれん) もくれん)、
の4人のすぐれた仏弟子をいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)ので、「声聞」は、元来は、
仏在世の弟子のこと、
をさす(広辞苑)。
「声聞」は、
梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、
の訳語、
声を聞くもの、
の意で、
弟子、
とも訳す(精選版日本国語大辞典)。
縁覚、
菩薩、
と共に、
三乗、
の一つとされる(仝上)。「声聞」が、
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、
であるのに対して、
縁覚(えんがく)、
は、
梵語pratyeka-buddhaの訳語、
で、
各自にさとった者、
の意、
独覚(どっかく)、
とも訳し、
仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、
をいう(仝上・日本大百科全書)。
「菩薩」は、
サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、
の音訳、
菩提薩埵(ぼだいさった)、
の省略語であり、
bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、
より、
悟りを求める人、
の意であり、元来は、
釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、
をさしている(仝上)とされる(「薩埵」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485883879.html)については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、
菩薩はつねに単数で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、
だけを意味する。そして他の修行者は、
釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。
「阿羅漢」とは、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教(小乗仏教)では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞を独覚(縁覚)と並べて、この2つを二乗・小乗として貶している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。ちなみに、「乗」とは、
「乗」は乗物
の意で、
世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、
を指し、「三乗」とは、
悟りに至るに3種の方法、
をいい、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、
とされた。つまり、「声聞」の意味は、
縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数える、
ときには、
仏陀の教えを聞く者、
という本来の意ではなく、
仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者のことを指し、四諦の教えによって修行し四沙門果を悟って身も心も滅した無余涅槃(むよねはん 生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。)に入ることを目的とする人、
のことを意味する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。
因みに、「四諦(したい)」は、
「諦」はsatyaの訳。真理の意、
で、迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、
苦諦、
集諦(じったい)、
滅諦、
道諦、
の四つで、
四聖諦(ししょうたい)、
ともよばれる。苦諦(くたい)は、
人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、
集諦(じったい)は、
その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのウ)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、
滅諦(めったい)は、
それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、
道諦(どうたい)は、
この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による、
とするもの(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。
(「聲」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%B2より)
(「聲」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%B2より)
「聲(声)」(漢音セイ、呉音ショウ)は、磬(ケイ)という楽器を描いた象形文字。殳は、磬をたたく棒を手に持つ姿。聲は「磬の略体+耳」で、耳で磬の音を聞くさまを示す。広く、耳をうつ音響や音声をいう、
とある(漢字源)。
「聞」(漢音ブン、呉音モン)は、
会意兼形声。門は、とじて中を隠すもんを描いた象形文字。中がよく分からない意を含む。聞は「耳+音符門」で、よくわからないこと、隔たっていることが耳にはいること、
とある(漢字源)。
「ききわける意を表す」(角川新字源)、
「隔たりを通して耳をそばだて聞く」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%9E)、
意とあり、「問」と同系で反対の動作を表す(仝上)とある。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95