唐土にても望夫石(ぼうふせき)の故事と相ひ似たり、是れたまたま其の石の、人がたちに似たるを以て、名付けたるべし(百物語評判)、
とある、
望夫石、
は、
望夫石の故事は多いが、ここでは「武昌貞婦望失、化面為石」と『神異経』の述べる、湖北省武昌北山の石であろう、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『神異経』は、
中国の古代神話を編纂した古書、
で、『山海経』に似ている(https://prometheusblog.net/2017/12/01/post-6570/)とある。
「望夫石」の故事は、各地にあるらしいが、
中国湖北省武昌の北山にある石、
は、
貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、そのまま岩になった、
と伝える(広辞苑・日本国語大辞典)が、『神異経』などに見える伝説にもとづく、とある(仝上)。
(望夫石(香港の沙田区の丘の上にある自然にできた岩) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E5%A4%AB%E7%9F%B3より)
日本でも、
はうふせきという石も、こひゆゑなれるすかたなり(「とはずがたり(14C前)」)、
と、
松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を見送り、石になった、
というものなど各地にある(仝上)。万葉集にも、
山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領布(ひれ)を振りけむ、
万代(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領布(ひれ)振りけらし松浦佐用姫、
海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫、
行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫、
などと詠われる「松浦佐用姫」伝説は、
大伴佐提比古(狭手彦 おとものさてひこ/さでひこ)が異国へ使者として旅立つとき、妻の松浦佐用比売(さよひめ)が別れを悲しみ、高い山の上で領巾(ひれ 首から肩に掛けて左右に垂らす白い布)を振って別れを惜しんだので、その山を「領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)」とよぶと伝える、
とある(日本大百科全書)。大伴狭手彦が朝廷の命で任那(みまな)に派遣されたことは『日本書紀』の宣化(せんか)天皇二年(537)条にみえるが、佐用姫の伝えはない、とある(仝上)。肥前地方で発達した伝説で、奈良時代の『肥前国風土記』にも、松浦(まつら)郡の、
褶振(ひれふり)の峯(みね)、
としてみえるが、そこでは、
大伴狭手彦連(むらじ)と弟日姫子(おとひひめこ)の物語、
になっており、
夫に別れたのち、弟日姫子のもとに、夫に似た男が通ってくる。男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどると、峯の頂の沼の蛇であった。弟日姫子は沼に入って死に、その墓がいまもある、
と、昔話の、
蛇婿入り、
の三輪山型の説話になっている(仝上)。
佐賀県唐津市東郊鏡山(284メートル)を中心に東北地方まで伝説が分布、
しているという(日本伝奇伝説大辞典)。
狭手彦が百済救援のため渡海するときに名残りを惜しんだ、
名残りの坂、
焦がれ石、
がある(仝上)。姫は夫に焦がれて後姿を追って鏡山に登り領巾(ひれ)を振った。山頂に、
領巾振り松、
があり、それで鏡山を、
領巾振(ひれふり)山、
といい、姫は、軍船が小さくなると、松浦川の
松浦佐用姫岩、
に飛び降り、着物が濡れたので、
衣掛(きぬかけ)松、
で干し、呼子に走ったが及ばず、加部島の伝登(てんどう)岳で、悲しみの余り、
望夫石、
と化した(仝上)、とされる。なお、「呼子」の古名、
呼子の浦、
といい、姫がここで夫の名を呼んだのに由来すると伝える(日本大百科全書)。近年、
松浦佐用姫伝説、
が、干拓地に多いことから、
人柱、
とする説もあるようだ(若尾五雄「人柱と築堤工法」)。
(松浦佐用姫(歌川国芳「賢女烈婦傳」 「..恋慕の気凝りて、そのままに形(かたち)石となり」と伝わる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%90%E7%94%A8%E5%A7%ABより)
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95