2022年12月29日

入子の語りと入子の解体


高沢公信『古井由吉・その文体と語りの構造』を読む。

古井由吉論.jpg


最初の出会いは、『現代文学の発見』(學藝書林)と題された全集(全16巻)の別巻で企画された、無名の作家特集、『孤独のたたかい』http://ppnetwork.seesaa.net/article/469436412.htmlの中に、

犬養健、
竹内勝太郎、

などと並んで、古井由吉の、

先導獣の話、

が収録されていて、それが初見だと思う。そして、遡って処女作『木曜日に』を読み直した。『木曜日に』の冒頭は、古井由吉の語りの特徴を余すところなく示している。『木曜日に』は、次のように語り始められている。

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立はそれと知られた。まだ暗さはほとんど変わりがなかったが、まだ流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁にそってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、渓川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。
 ちょうどその頃、渓間の温泉宿の一部屋で、宿の主人が思わず長くなった午睡の重苦しさから目覚めて冷い汗を額から拭いながら、不気味な表情で滑り落ちる渓川の、百メートルほど下手に静かにかかる小さな吊橋をまだ夢心地に眺めていた。すると向こう岸に、まるで地から湧き上がったように登山服の男がひとり姿を現し、いかにも重そうな足を引きずって吊橋に近づいた。

と、まるで“いま”起きつつあることを、同時進行に語るような語り口が、実は、

《あの時は、あんたの前だが、すこしばかりぞっとさせられたよ》と、主人は後になって私に語ったものである。

と、「私」が、過去において宿の主人から聞いた話を再現して語っているのだということが、種明しされる。つまり、ここでまるでゼロ記号の羅列のような、終止形止めが目立つのも、それを思い出している“いま”ではなく、“そのとき”を“いま”とした語りを入子にしている(剥き出しにしている)からにほかならない。
だからむろん、この場合の「た」と「る」の不統一な使用は、語っている“いま”からの過去形と、“そのとき”を“いま”とする現在形の混同でないの、「た」が判断のそれとして、物語の現在に結びついて」語っている“そのとき”において、“いま”のように現前化されているからにほかなない。
だから、冒頭、「長くなった午睡」から目覚めた宿屋の主人の視線で、自分を客観化した「男」、つまり“そのとき”の「私」について、“そのとき”を現在として現前させた語りをとっている。

古井由吉の最も典型的な語りの特徴は、既に『木曜日に』でよく示されている。

「私」は、宿の人々への礼状を書きあぐねていたある夜更け、「私の眼に何かがありありと見えてきた」ものを現前化する。

それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。

厳密に言うと、木目を見ていたのは、手紙を書きあぐねている“とき”の「私」ではなく、森の山小屋にいた“そのとき”“そこ”にいた「私」であり、その「私」が見ていたものを「私」が語っている。つまり、
 ①「私」について語っている“いま”、
 ②「私」が礼状を書きあぐねていた夜更けの“とき”、
 ③山小屋の中で木目を見ていた“とき”、
 ④木目になって感じている“とき”、
の四層が語られている。しかし、木目を見ていた“とき”に立つうちに、それを見ていたはずの「私」が背後に隠れ、「私」は木目そのものの中に入り込み、木目そのもののに“成って”、木目が語っているように「うっとり」と語る。見ていたはずの「私」は、木目と浸透しあっている。動き出した木目の感覚に共感して、「私」自身の体感が「うっとり」と誘い出され、その体感でまた木目の体感を感じ取っている。

節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。

最後に、視線は、“いま”語っている「私」へと戻ってくる。そして、その「私」のパースペクティブの入子になって書きあぐねていた“そのとき”の「私」の視線があり、その入子となって、小屋の中で木目を見ていた“そのとき”があり、更に木目に滑り込んで、木目に感応していた“そのとき”がある。と同時に、浸潤しあっていたのは、“そのとき”見ていた「私」だけでなく、それを“いま”として、眼前に思い出している語っている「私」もなのだということである。
そのとき、《見るもの》は《見られるもの》に見られており、《見られるもの》は《見るもの》を見ている。《見るもの》は、《見られるもの》のパースペクティブの中では《見られるもの》になり、《見られるもの》は、《見るもの》に変わっていく。あるいは《見るもの》は《見られるもの》のパースペクティブを自分のものとすることで、《見られるもの》は《見るもの》になっていく。その中で《見るもの》が微妙に変わっていく。
だが、その語りは、語っている「私」が、“いま”見たのにすぎない。“いま”“そのとき”を思い出して語っている「私」も、その入子になっている「私」も、木目も、その距離を埋めることはない。いやもともと隔たりも一体感も「私」が生み出したものなのだ。ただ、「私」はそれに“成って”語ることで、三者はどこまでいっても同心円の「私」であると同時に、それはまた「私」ではないものになっていく。それが「私」自身をも変える。変えた自分自身を語り出していく。そういう語りの可能性が、既に処女作で達成されたいるのである。

こうした語りの特徴を分析するツールとして、

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483830026.html

に出会ったことが大きい(『日本語はどういう言語か』については「詞と辞」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483830026.html)で触れた)。ある意味、古井由吉の語りを絵解きするキー概念が見つかったと感じている。それを、
『槿(あさがお)』で例示してみるなら、『槿(あさがお)』は、こう始まる。

腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。

「腹をくだして朝顔の花を眺めた」とあれば、読み手は、話者が朝顔を眺めている場面を想定する。しかし続いて、「十歳を越した頃だった」とくると、なんだ、想い出の中のことだったかと思い知らされる、ということになる。しかし、ここに古井氏の語り構造の特徴がある。こういう次第を普通の(?)表現にしてみれば、

十歳を越した頃、腹をくだして朝顔の花を眺めていたことがあった。

となるだろう。両者のどこが違うのか。前節で取り上げたように、構造上は、「腹を下して朝顔の花を眺めてい」る場面が「た」によって客観化され、現前化されて、その上で、それが「十歳を越した頃」で「あった」と、過去のこととして時間的に特定され、語っている“いま”へと戻ってくるという構造になることはいずれもかわりない。
つまり、そう語る心象においては、一旦現前化された「朝顔の花を眺めてい」る場面が想定されており、その上で、“いま”へと戻って来ることで、時間的隔たりが表現されることとなる。
この日本語的表現からみた場合、

腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。

は、その心象の構造を語りに写し取ったものだということができるはずである。「辞」によって主体的表現が完結するとは、こういう構造にほかならない。これが古井氏の語りの第一の特色ということができる。

更に、『槿』の例を分析してみると、注意すべきなのは、この「腹をくだして朝顔の花を眺め」ていたのを想い出していたということをただ語っているだけではないということだ。それなら、

十歳を越した頃、腹をくだして朝顔の花を眺めていたことがあった。

と語ればすむ。こう語るのとの違いは、思い出されている場面を思い出しているのを語っているということにある。そこには、想い出の場面と思い出している場面の二つが現前しているのである。実は、これも、日本語の構造に根差している。
「詞」で客体的表現(これは客観的という意味だけではない。客観化した表現)であり、「辞」は主体的表現(主観的な感情や意志の表現)であり、“そのとき”について“いま”感じているという場合が一番分かりやすい。それを具体的に表現するとすれば、“そのとき”見えたものを描き、それを“いま”どう受け止めているかを描けば、正確に構造を写したことになるだろう。このとき、“そのとき”と“いま”は二重に描き出される。
もう少し突っ込んだ言い方をすれば、主人公を語っている“いま”と、主人公が朝顔を眺めている“とき”とは一致しているわけではないから、
 ①主人公を語っている“とき”、
 ②主人公が朝顔を眺めている“とき”、
 ③主人公に語られている、「十歳を越した」“そのとき”、
と、三重構造になっているというべきである。同時に、思い出されている“そのとき”の場面と、それを思い出している“いま”の場面とが、それを語る語り手のいる“とき”から、二重に対象化して、語り手は、それぞれを“いま”として、現前させているということにほかならない。日本語の例で言えば、

と言った.gif

 ①「桜の花が咲いて」いる“とき”、
 ②「桜の花が咲いていた」と「言っ」た“とき”、
 ③「桜の花が咲いていた」と「言った」と語っている“いま”、
の三つの“とき”があり(むろん、前述の通り、この語りを囲んで、④「と言った」と書いている“とき”があることは言うまでもない)、それぞれを現前化させていると言ったらわかりやすいはずである。そして現前化するとき、“そのとき”は“いま”として、それぞれがゼロ記号化した語りとなっているはずである。そうすることで、実は入子の語りは完結し、そこまで語りのパースペクティブは到達しているということを意味する。

そして、ここには、古井氏の語りを考えるとき、重大な意味が隠されている。
すなわち、③の語りの時点から見たとき、②の“とき”も①の“とき”も入子になっているが、単純な入子ではない。③から①を現前化するとき、話者は、②の発話者に“成って”それを現前化しているのである。もし、①が自分の回想だとしたら、“そのとき”の自分になっているし、もし他人(相手)の発話だとしたら、“そのとき”の他人(相手)の発話になって、それを現前化しているのである。だから、ここで語りのパースペクティブの奥行というとき、入子になっているのは、語られたこと自体だけではなく、語るもの自体をも入子にし、しかもその発話を入子の発話者に転換して入子にしているということを見逃してはならない。
だから、前節で触れたように、これがゼロ記号となっているときは、

と言う.gif

前述の①の時間を欠き、その分語りが奥行を欠いていることになるというのは見易いし、また「と言」う“とき”を“いま”としたとき、話者には相手が目の前にいることになり、その言う「桜の花が咲いていた」という言葉が“いま”発せられたことを写しているために、その発話だけが対象として見えるだけになるというのも見易いはずだ。
前者のような語りの構造は、語りのパースペクティブという面で考えるなら、語り出される“そのとき”が、前へ前へ(あるいは過去へ過去へ)と、発話者も含め、入子になって重ねられていくということでもある。これが、古井氏の語りの第二の特色ということができる。

これが『槿』だけではなく、処女作『木曜日に』以来のものなのだということは、前述の。『木曜日に』の冒頭の例で示したところだ。

古井氏の語りの第三の特色は、このようにゼロ記号化に落ち込まないことによって、“そのとき”を現前化するだけでなく、それぞれ入子とした語りの“いま”との距離を、つまり「辞」としての“いま”からの隔たりのすべてを語りのなかに持ち込んでくることに自覚的な点なのだ。これを語りのパースペクティブの奥行と言わなくてはなるまい。

こうした古井由吉の語りの奥行きを象徴的に描き出しているのは『哀原』である。

語り手の「私」は、死期の近い友人が七日間転がり込んでいた女性から、その間の友人について話を聞く。その女性の語りの中に、語りの“とき”が二重に入子となっている。
一つは、友人(文中では「彼」)と一緒にいた“とき”についての女性の語り。

お前、死んではいなかったんだな、こんなところで暮らしていたのか、俺は十何年間苦しみにくるしんだぞ、と彼は彼女の肩を掴んで泣き出した。実際にもう一人の女がすっと入って来たような、そんな戦慄が部屋中にみなぎった。彼女は十幾つも年上の男の広い背中を夢中でさすりながら、この人は狂っている、と底なしの不安の中へ吸いこまれかけたが、狂って来たからにはあたしのものだ、とはじめて湧き上がってきた独占欲に支えられた。

これを語る女性の語りの向う側に、彼女が「私」に語っていた“とき”ではなく、その語りの中の“とき”が現前する。「私」の視線はそこまで届いている。「私」がいるのは、彼女の話を聞いている“そのとき”でしかないのに、「私」は、その話の語り手となって、友人が彼女のアパートにやってきた“そのとき”に滑り込み、彼女の視線になって、彼女のパースペクティブで、“そのとき”を現前させている。「私」の語りのパースペクティブは、彼女の視点で見る“そのとき”を入子にしている(厳密にいうと、「私」を語る語り手がその外にいるが、それは省く)。

もう一つは、女性の語りの中で、男が女性に語ったもうひとつの語り。

或る日、兄は妹をいきなり川へ突き落とした。妹はさすがに恨めしげな目で兄を見つめた。しかしやはり声は立てず、すこしもがけば岸に届くのに、立てば胸ぐらいの深さなのに、流れに仰向けに身をゆだねたまま、なにやらぶつぶつ唇を動かす顔がやがて波に浮き沈みしはじめた。兄は仰天して岸を二、三間も走り、足場の良いところへ先回りして、流れてくる身体を引っぱりあげた。

と、そこは、「私」のいる場所でも、女性が友人に耳を傾けていた場所でもない。まして「私」が女性のパースペクティブの中へ滑り込んで、その眼差しに添って語っているのでもない。彼女に語った友人の追憶話の中の“そのとき”を現前させ、友人の視線に沿って眺め、友人に“成って”、その感情に即して妹を見ているのである。

時間の層としてみれば、
「私」の語る“とき”、
彼女の話を聞いている“とき”、
彼女が友人の話を聞いている“とき”、
更に、
友人(兄)が妹を川へ突き落とした“とき”、
が、一瞬の中に現前していることになる。
また、語りの構造から見ると、「私」の語りのパースペクティブの中に、女性の語りがあり、その中に、更に友人の語りがあり、その中にさらに友人の過去が入子になっている、ということになる。
しかも「私」は、女性のいた“そのとき”に立ち会い、友人の追憶に寄り添って、「友人」のいた“そのとき”をも見ている。“そのとき”「私」は、女性のいるそこにも、友人の語りのそこにもいない。「私」は、眼差しそのものになって、重層化した入子のパースペクティブ全てを貫いている。
それは、敢えて言えば、「私」の前に、時間軸を取り払えば、それぞれの語りを“いま”として、眼前に、並列に並べているのと同じなのである。

しかし、この折り畳まれた「入子」構造が、古井由吉の達成した語りの頂点ではない。『眉雨』では、その折り畳まれた入子の語りの「辞」をすべてゼロ記号化し、全く別の語りの世界を描いて見せたのである。それは、『山躁賦』『仮往生伝試文』へとつながる分水嶺になっているのである。

なお、全集『現代文学の発見』については、

『言語空間の探検(全集現代文学の発見第13巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/477112809.html、『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474922780.html、『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474256411.html、『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473881878.html)、『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.html、『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473489712.html、『青春の屈折上(全集現代文学の発見第14巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473010392.html、『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473336507.html)、『日常の中の危機(全集現代文学の発見第5巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472764538.html、『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/471663095.html、『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472034541.html、『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470946114.html、『方法の実験(全集現代文学の発見第2巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470800504.html、『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470502694.html

で触れた。

参考文献;
高沢公信『古井由吉・その文体と語りの構造』(西田書店)
高沢公信「語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm
高沢公信「眉雨論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-3.htm
高沢公信「中上健次論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic2-1.htm

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:45| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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