夜道旅道には、迷ひの物(さまよう霊や変化)に逢はぬためとて、卒都婆の杖をつねづね拵へ持ちけるが(諸国百物語)、
にある、
卒都婆の杖、
は、
卒都婆は、墓の後ろに供養のため、経文を書いて立てる長い板、「一見卒都婆、永離三悪通」(謡曲「卒都婆小町」)。卒都婆の杖は、とくにあつらえて、そのような経文を書き入れた六角棒、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。あまり辞書に載らないが、修行僧や、修験者が持つ杖を、
錫杖(しゃくじょう)、
といい、また四国八十八カ所などの巡礼の遍路が持つ杖を、
金剛杖(こんごうじょう、こんごうづえ)、
または、
遍路杖(へんろじょう)、
という。杖は、
卒都婆、
の意味に加え、
弘法大師(空海)の身代り、
との意味(https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9D%96)も持つという。確かに、遍路の白衣が死に装束とされたように、杖も、
道中で行き倒れたときに「墓標」とする意味、
があった(https://ohenro.konenki-iyashi.com/category3/entry44.html)とある。
その名残が、金剛杖の上部にあり、
四角に削られた4つの面には「梵字」で「空・風・火・水・地」の5文字、
が書かれており、
五輪の塔、
を表しているもので、墓標に掲げられた文字と同じ意味(仝上)である。
(卒都婆 大辞林より)
卒都婆、
は、
卒塔婆、
率塔婆、
卒堵婆
窣堵婆、
などとも表記し(広辞苑・大言海)、
そとうば、
そとば、
と訓ませる(仝上)が、
梵語stpaの音訳、
で、
藪斗婆、
窣都婆、
とも音写され、
高顕の義(大言海)、
頭の頂、髪の房などの義(日本国語大辞典)、
などとされ、
廟、
方墳、
円塚、
霊廟、
墳陵、
などと意訳する(大言海・日本国語大辞典)。本来、
仏舎利を安置したり、供養・報恩をしたりするために、土石や塼(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造られた築造物、
つまり、
塔、
の意で、
塔婆、
ともいう(仝上)。それが転じて、
供養のため墓の後ろに立てる細長い板、
を指し、
板塔婆(いたとうば、いたとば)、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86)、上部は、
五輪卒都婆(五輪塔)、
を模して上部が塔状になっており、上から、
空(宝珠)・風(半円)・火(三角)・水(円)・地(四角)の五大、
を表す(仝上)とある。
(五輪卒都婆(五輪塔) 精選版日本国語大辞典より)
「五輪卒都婆」は、
五輪塔、
五輪の石、
五輪の石塔、
ともいい、
卒塔婆の一つ、
だが、平安中期ごろ密教で創始された塔形で、
石などで、方・円・三角・半月・団(如意珠 にょいしゅ)の五つの形をつくり、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から積みあげた形のもの。多くはその表面に五大の種子(しゅじ)、すなわち梵字(ぼんじ)を刻む。これはもと大日法身の形相を表示したもの、
とある(精選版日本国語大辞典)。
仏陀の骨や髪または一般に聖遺物をまつるために土石を椀形に盛り、あるいは煉瓦を積んで作った建造物、
である、
梵語stūpa、
の、
塔(とう)、
は、
卒塔婆、
塔婆、
ともいうが、中国に伝えられて楼閣建築と結びつき、独特の木造・塼せん造などの層塔が成立し、日本では、
木造塔、
が多く、三重・五重の層塔や多宝塔・根本大塔などがある。地中や地表面上の仏舎利収容部、心柱、頂上の相輪に本来の塔の名残が見られる(広辞苑)とある。
(真身宝塔(法門寺(西安市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%A1%94より)
なお、卒塔婆を使った死者供養の古層と言える形態に、枝や葉のついた生木を依代として墓前に刺す、
梢付塔婆(うれつきとうば)、
葉付塔婆、
などと呼ばれる風習がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86)。これらは神式葬祭に使われる、
玉串の原型、
とも言われ、12世紀に密教と真言宗の教えが習合し、五輪塔を墓碑や供養塔として建てる風習が現れた。『餓鬼草紙』や『一遍聖絵』などには林立する木製の五輪卒塔婆が描かれている(仝上)。
(木製の五輪卒塔婆(餓鬼草子) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86より)
日本紀略(にほんきりゃく 平安時代に編纂された歴史書)康保(こうほう)四年(967)に、
五畿内幷伊賀伊勢等廿六箇國、可立率都婆六十基之由被下宣旨、高七尺、径八寸、
とあり、同永祚永祚(えいそ)元年(989)には、
摂政(兼家)於吉田、被立千本率都婆、
とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95