2023年02月06日

正行(しょうぎょう)


歌をよみ、詩をつくり、経論(きょうろん 仏の説いた経、それを祖述した論)、正行(しょうぎょう)まで、残らず読みわきまへ、慈悲の心ざし深かりし娘也(諸国百物語)、

にある、

正行、

は、

弥陀への読誦、観察、礼拝、称名、賛嘆の五つの行為を「正行」というが、本文はこれを経典の一つに誤解している、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ただ、校注者が言っている、

読誦(どくじゆ)・観察・礼拝・称名・讚歎供養(さんたんくよう)、

の五つは、特に、

浄土門、

で、念仏者が修すべきこととされ、

称名を正定業(しょうじょうごう)とし、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業(じよごう)、

とする、

弥陀浄土に往生する5種の正しい行い、

をいい、唐の僧、善導が観経に拠ってこの説をたてた(広辞苑・大辞泉)とされる。『観経疏』(善導)の就行立信釈(じゅぎょうりっしんしゃく)は、

行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは、専ら往生経に依りて行を行ずる者、これを正行と名づく。何者かこれなる。一心に専らこの『観経』、『弥陀経』、『無量寿経』等を読誦し、一心にかの国の二報荘厳に専注、思想、観察、憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す。またこの正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に、時節の久近(くごん)を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。もし礼誦(らいじゅ)等に依るをば、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除いて已外、自余の諸善を、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えざれば名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく、

と説くhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E3%83%BB%E9%9B%91%E8%A1%8C。「正行」の反対が、

雑行(ぞうぎょう)、

で(「ぞう」「ぎょう」はそれぞれ「雑」「行」の呉音)、

阿弥陀仏以外の仏菩薩の名を称えるなど、正行(しょうぎょう)以外の諸善、また、それらを修めること

いい、『往生礼讃』(善導)は、

もし専を捨てて雑業を修せんと欲する者は、百の時希に一二を得、千の時希に三五を得。何を以ての故に。すなわち雑縁乱動し正念を失するに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教えと相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貪・瞋・諸見の煩悩来たりて間断するが故に。慚愧・懺悔の心有ること無きが故なり…また相続してかの仏の恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて業行をなすといえども常に名利と相応するが故に。人我みずから覆いて同行の善知識に親近せざるが故に。ねがいて雑縁に近づき往生の正行を自障し障他するが故なり、

と、雑行には一三の失があると説く(仝上)。『選択集』(法然)は、親疎対・近遠対・有間無間対・不回向回向対・純雑対の五番相対を立てて両者の価値を相対的に区別し、「正行」は、これを実践する行者と阿弥陀仏との関係が、

①親しく、
②近しく、
③憶念が間断しておらず、
④ことさら回向する必要がなく、
⑤往生のための純粋な実践である、

が、「雑行」は、阿弥陀仏との関係が

①疎く、
②遠く、
③憶念が間断しており、
④回向しないかぎり往生行とはならず、
⑤他方の諸仏浄土への往生行であり極楽への純粋な往生行ではない、

とし、

然らば西方の行者、雑行を捨て正行を修すべきなり、

と結論づけている(仝上)。この意図は、

他力本願、

の趣旨で、「雑行」は、

私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行、

いい、阿弥陀仏の救いに役立てようとする、

自力の心、

なので、「雑行」は、

自力の心でする諸善万行、

をいうhttps://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0425.htmとある。たとえば、

これだけ親に孝行しているから、
これだけ他人に親切しているから、
これだけ世の中のために尽くしているから、

阿弥陀仏は助けてくださるだろう等々と思ってやっているすべての善を、

雑行、

というのだからである(仝上)と。

浄土門でいう「正行」は、以上のようなものだが、その元々の意味は、

正行是法明門、至彼岸故(「正法眼蔵(1231~53)」)、

と、

悟りを得るための正しい行い、

あるいは、

仏教の実践修行としての正しい行い、

を指し(広辞苑・日本国語大辞典)、

八正道の一つ、

である、

正精進、

をいう(仝上)。

八正道(はっしょうどう)、

は、「正念に往生す」で触れたことだが、

八聖道(八聖道分)、
八支正道、
八聖道支、

ともいい、仏教を一貫する八つの実践徳目で、これによって悟りが得られ、理想の境地であるニルバーナ(涅槃 ねはん)に到達されると説く。つまり、

(1)正見(しょうけん 梵語samyag-dṛṣṭi) 正しいものの見方、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ること、
(2)正思(しょうし 正思惟(しょうしゆい) 梵語amyak-saṃkalpa) 正しい思考、出離(離欲)、無瞋、無害を思惟すること、
(3)正語(しょうご 梵:語samyag-vāc) 正しいことば、妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けること、
(4)正業(しょうごう 梵語samyak-karmānta) 正しい行い、殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れること、
(5)正命(しょうみょう 梵語samyag-ājīva) 正しい生活、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと(命は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす)、
(6)正精進(しょうしょうじん 梵語samyag-vyāyāma) 正しい努力、「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践を努力すること、
(7)正念(しょうねん 梵語samyak-smṛti) 正しい集中力、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
(8)正定(しょうじょう 梵語samyak-samādhi) 正しい精神統一、禅定(ぜんじょう)、正しい集中力(サマーディ)を完成すること。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られる、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93・世界大百科事典)。因みに、「四諦(したい)」とは、

四聖諦、
四真諦、
苦集滅道、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、「諦」は、

梵語catur-ārya-satyaの訳、

で、

4つの・聖なる・真理(諦)、

を意味し、すなわち、

①苦諦(くたい、梵語duḥkha satya) 人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
②集諦(じったい、じゅうたい、梵語samudaya satya) 人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす、
③滅諦(めったい、梵語nirodha satya) 苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす、
④道諦(どうたい、梵: mārga satya) 渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道となる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、この第四の「道諦(どうたい)」は、かならず、

八正道、

を内容とした。逆にいえば、

八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、

とあり(日本大百科全書)。しかも四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においても、けっして変わることなく、出家・在家の別なく、

仏教者の実践のあり方、

を指示して、今日に至っている(仝上)とある。

「正」 漢字.gif

(「正」 https://kakijun.jp/page/sei200.htmlより)

正鵠を射る」で触れたように、「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進の原字)、

とあり(漢字源)、「邪」の反対の意(字源)だが、「正」は、

的、

の意で、

射侯の中、弓の的の中の星、

の意である(仝上)。

終日射侯、不出正兮(齊風)、

と使われる。「射侯(しゃこう)」とは、

矢の的。侯は的をつける十尺四方の布、

とある(広辞苑)。ただ、別に、

「止」が意符、「丁」が声符の形声字で、本義は{征(討伐する)}。従来は、「-」(目標となる線)+「止」からなり「目標に向けてまっすぐ進むこと」を表すとされたが、甲骨文・金文中でこの字の上部は円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて棒線となったに過ぎないことから、この仮説は誤りである、

との指摘https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3があり、

会意。止と、囗(こく=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji184.html

「行」 漢字.gif



「行」 甲骨文字・殷.png

(「行」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%8Cより)

「行」(「ゆく」「おこなう」意では、漢音コウ、呉音ギョウ、唐音アン、「人・文字の並び、行列」の意では、漢音コウ・呉音ゴウ・慣用ギョウ)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いで動作する(おこなう)などの意を表わす。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

象形。四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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