奪衣婆、
は、「三つ瀬の川」で触れたように、偽経「十王経」が、
葬頭河曲(さうづがはのほとり)、……有大樹、名衣領樹、影住二鬼、一名脱衣婆、二名懸衣翁(十王経)、
と説く、
川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせる、
という(日本大百科全書)、
三途(さんず)の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆、
をいう(広辞苑)。
脱衣婆、
とも当て、
葬頭河(しょうずか・そうずか)の婆(はば)、
奪衣鬼、
脱衣婆(鬼)、
葬頭河婆(そうづかば)、
正塚婆(しょうづかのばば)、
姥神(うばがみ)、
優婆尊(うばそん)、
とも言う(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86)。
懸衣翁、
は、
その衣を衣領樹に掛け、その枝の高低によって罪の軽重を定める、
という(ブリタニカ国際大百科事典)。
亡者の生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が異なる、
のだとされる(世界大百科事典)。奪衣婆の初出は、中国の偽経、
仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経(略して『預修十王生七経』)、
をもとに、日本で12世紀末で成立した偽経、
仏説地蔵菩薩発心因縁十王経、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86)とされるが、『地蔵十王経』と内容が類似する、
十王経図巻、
が中国に存在するため、同経は単純に日本撰述とは言えない、
ようである(清水邦彦『「地蔵十王経」考』)。ただ、
「奈河津」「奪衣婆」、
といった語句、あるいは、
閻魔と地蔵との関係、
を除き、十王の本地仏といった発想は、中国の、
仏説預修十王生七経
には見られないなどから、その文言の多くは日本で形成されたと考えられる(仝上)とある。ただ、
『仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経』は日本に招聘された中国僧によって10世紀には説かれており、『法華験記』(1043年)には、奪衣婆と同様の役目を持つ「媼の鬼」という鬼女が登場することから、奪衣婆の原型は地蔵十王経成立以前から存在していたと考えられる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86)ので、そうした奪衣婆像の集大成としてまとめられたものと見える。
(『十王図』(土佐光信)にある三途川。善人は橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれている。左上、懸衣翁は亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹にかけて罪の重さを量っている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより)
(西福寺(川口市)地蔵堂の奪衣婆像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86より)
多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれており、鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となるが、ただ、江戸末期になると、
民間信仰の対象、
とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立され、民間信仰における奪衣婆は、
疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目がある
といわれた(仝上)。
宗円寺(世田谷区)、
正受院(新宿区)、
は、奪衣婆を祀る寺として知られる(仝上)。柳田國男は、
奪衣婆信仰は日本に古くからあった姥神信仰が習合変化したもの、
としている(妹の力)し、『甲子夜話』の、
関の姥神(うばかみ)、
を紹介し、
関の姥神は当時咳の病を祈る神として居るが、実は三途の川の奪衣婆と共に道祖神の一変形である、
とする説を紹介し(山島民譚集)、この時期(江戸末期)に、
野路や里中の露台から取上げられて仏堂の奥に遷された姥神は、殆ど残らず新しい様式に作り換へられて居る。尾張熱田の裁断橋はもとは領地の地境の意味であらうが其の南の詰の姥子堂は今は時宗の僧侶の管守に帰し安阿弥作と云ふ奪衣婆の像が置いてある。此は川の名の精進川と云ふのから起こったのかも知れぬ。奥州外南部の恐山の地獄から出て北海へ流るる正津川の川口近く、茲にも正津川の婆とて同じ像を祀った姥堂がある、
と各地の例を挙げている(仝上)。
なお『十王経』の、
十王、
とは、
初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、百ヶ日、一周忌、三回忌の節目毎に死者の生前の行いを審判する十人の冥府の王、
を指す(https://www.kyohaku.go.jp/old/jp/theme/floor2_2/f2_2_koremade/butsuga_20180612.html)とあり、インドの仏教においては、臨終から七日ごと、七週にわたって法要が行われていました。これが現在の葬送にも引き継がれている、
四十九日、
で、仏教が中国に伝わった後、儒教の、
百日忌・一周忌・三回忌の服喪期間、
とミックスされ、ローカル化し、九世紀頃に『預修十王生七経』という偽経が作られ、
十王信仰、
が成立した(仝上)。十王は、
初七日 泰広王(本地 不動明王) 殺生について取り調べる。
二七日 初江王(本地 釈迦如来) 偸盗(盗み)について取り調べる。
三七日 宋帝王(本地 文殊菩薩) 邪淫の業について取り調べる。
四七日 五官王(本地 普賢菩薩) 妄語(うそ)について取り調べる。
五七日 閻魔大王(本地 地蔵菩薩) 六道の行き先を決定する。
六七日 変成王(本地 弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定する。
七七日 泰山王(本地 薬師如来) 生まれ変わる条件を決定する。
百箇日 平等王(本地 観音菩薩)
一周年 都市王(本地 勢至菩薩)
三周年 五道転輪王(本地 阿弥陀如来)
となり、本地仏との対応関係は鎌倉時代に考え出された(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B)ようである(http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/juo.htm)。特に、十王のうちの閻魔王は、地蔵菩薩の姿を変えた存在と考えられ、
閻魔王は罪を憎んで苛烈な審判を下す反面、地蔵は人を憎まず地獄に落ちた者にも地獄に分け入って慈悲を垂れます、
とある(仝上)。
生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを、
預修、
と呼んでいた(仝上)とある。
「三途川」については「三つ瀬の川」で触れた。
参考文献;
栁田國男『増補 山島民譚集』(東洋文庫)
清水邦彦『「地蔵十王経」考』(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/1/51_1_189/_pdf/-char/en)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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