加持


何とてさやうに加持し給ふぞ。とてもかなはぬ事也。はやはや止め給へ(諸国百物語)、

の、

加持、

は、

加持祈祷、

の意で、

祭壇に護摩の火をたき、陀羅尼を唱え、印を結び、心を三昧にむける、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

加持祈祷.jpg

(「加持祈祷」 高田衛編・校注『江戸怪談集』(岩波文庫)より)

「加持(かぢ・かじ)」は、

梵語adhiṣṭhānaaの訳語、

で、原意は、

下に立つ、
支えとなる、

で、

所持、
加護、
護念、

などとも訳す(日本国語大辞典)仏語である。真言要記に、

加、諸仏大悲、來加行者持、行者信心、以感佛因、

とあり、それを、

「加」は、力を與ふること、「持」は、守りて失はざること(大言海)、
「加」は佛が衆生に応ずること、「持」は衆生がその仏の力を受けてうしなわないこと(岩波古語辞典)、
「加」は仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずることであり、「持」は信心する衆生が仏の加被力を受持すること(日本大百科全書)、

などとし、

加持の「加」は仏の慈悲の心がいつも衆生に注がれていることを意味し、その慈悲の心を良く感じ取ることができることを「持」と言う、

とあるhttps://www.homemate-research-religious-building.com/useful/glossary/religious-building/1994601/。それを、弘法大師は、

加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す、

といったhttps://www.yuushouji.com/okajiとある。それは、

仏さまがいつ何時でも私たちを見守ってくれるという“慈悲の心”が「加」であり、私たちが仏さまを信じ、精進努力していこうという“信心”が「持」であります。そして、この慈悲と信心が一つになったとき、加持の力が生ずる、

と(仝上)解釈されている。だから、

願いを持つ人の想いを仏に届け、仏に加護を求める行為、

なのであり、代表的なのは、

祭壇を組んで火を焚き、護摩木をくべて「真言」(マントラ)と呼ばれる経を唱える、

スタイルである(仝上)。「加持」は、本来、

菩薩が人びとを守ること、
加護すること、

の意(八十華厳経)であるが、真言密教の、

(「加」を仏、菩薩の大悲のはたらき、「持」を人の信心と解して)菩薩の力が信じる人の心に加わり、人がそれを受けとめること。また、真言行者が口に真言を誦し、意(こころ)に仏、菩薩を観じ、手に印を結んで、この三密(さんみつ)を行ずるとき、仏、菩薩の三密と平等相応して、相互に融け合い、一体となること、

という、

真言密教の修行法、

を指し、さらに、転じて、

真言密教で行なう修法上の呪禁の作法、

つまり、

三密相応させて、欲するものの成就を得る、

という

真言密教の祈祷、

である、

行者が手に印を結び、陀羅尼(だらに)を唱え、心を三昧にすることで、これによって事物を清めたり、願いがかなうように仏に祈ること(岩波古語辞典)、
印相を結び、独鈷、三鈷、五鈷を用ゐ、陀羅尼を唱へながら、観想を以て、佛力の加護を祈る呪法(大言海)、

をいい、さらに転じて、

行者を請して率て来て加持せしむるにやや久(ひさしく)ありて焼せむる事をまぬかれぬ(「観智院本三宝絵(984)」)、

と、民間信仰と混合して、

祈祷、

と同義に用い、

わざわいを除くため、神仏に祈ること、

つまり、

病人加持(病気治癒)、
井戸加持(井戸水の清め)、
帯(おび)加持(安産の祈祷)
虫切加持(子供の夜泣き・疳の虫封じ)、
ほうろく加持(頭痛除けと暑気払い)、

などを言うようになる(精選版日本国語大辞典)。

密教では、空海の、

加持者表如来大悲与衆生信心。仏日之影現衆生心水曰加。行者心水能感仏日名持(「即身成仏義(823~824頃)」)、

という、

即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)、

により、仏の大悲(だいひ)が衆生に加わり、衆生の信心に仏が応じて感応道交(かんのうどうこう)しあう、

ということを、

加持感応、

といい、

仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずるのが「加」であり、信心する衆生が仏の加被力を受持するのが「持」、

とし、本来、仏と衆生の本性とは、

平等不二、

であるとされ、仏の境地が衆生に直接体験されると考える。

行者の功徳力

如来の加持力

法界力、

の三力によって、われわれの行為とことばと心とが仏のそれらと合一することを、

三密(さんみつ)加持、

という。すなわち、

行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密 しんみつ)、
仏の真言(しんごん)を唱え(口密 くみつ)、
心が仏の境地と同じように高められれば(意密いみつ)、

この身のままで仏になれる(即身成仏)と説く(日本大百科全書)。

金剛宝戒寺.jpg

(金剛宝戒寺 https://www.houkaiji.jp/kigan/より)

しかし一般には、「加持」は、上述のように、

祈祷(きとう)、

の意に用いられ、

加持祈祷、

と並称されるが、「加持祈祷」は、

加持、

祈祷、

と言う2つの用語を合わせた言葉で、

加持と祈祷は多少概念が異なる、

とあるhttp://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/hayatine/kaisetu.htm。「加持」は、

護念・加護と相応し、かかわり合うことを意味する仏教の言葉、

であるが、「祈祷」は、

自己を崇拝対象にゆだねる宗教行為をさす諸宗教にみられる概念、

である(仝上)。

「加持祈祷」は、密教と密接な関係を持つ、

修験道、

で広く行なわれ、修験道の祈祷は、基本的には、

修法者が印契や真言によって崇拝対象と同化した上で守護や除魔をはかる、

というものである。

修験道の加持には、大別して、

帯加持・武具加持など加持の対象物に超自然力を付与する加持、
と、
土砂加持・病者加持など除魔を目的とする加持、

があるとされている(仝上)。「加持祈祷」というと、山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、

修験道、

が思い起こされるのは、象徴的である。

因みに、「陀羅尼」とは、

サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、

で、

陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、

とも書き、

保持すること、
保持するもの、

の意で、

総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、

と意訳し、

能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、

をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、

サンスクリット語原文を音読して唱える、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC。ダーラニーとは、

記憶して忘れない、

意味なので、本来は、

仏教修行者が覚えるべき教えや作法、

などを指したが、これが転じて、

暗記されるべき呪文、

と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、

一種の記憶術、

であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、

暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、

を目的とし(仝上)、

種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、

と称したもので、

術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった

とある(精選版日本国語大辞典)のは、

原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、

真言 mantra、

といわれたからだが、普通には、

長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)

と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、

これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、

とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、

仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、

とある(仝上)。

『大智度論(だいちどろん)』には、

聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、

の三種の陀羅尼を説き、

略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、

があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、

法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、

の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、

法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、

の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、

原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なお、「陀羅尼」は、訛って、

寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、

と、

だらり、

ともいう。

独鈷.png

(上から、独鈷杵(どっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・五鈷杵(ごこしょ) https://www.kongohin.or.jp/mikkyohogu.htmlより)

なお、「独鈷」については「金剛の杵」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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