奥嶋検校といふ人、そのむかし六十余まで、官一つもせざりし故、方々、稼ぎに歩くとて(諸国百物語)、
過分に金銀をまうけ、七十三にて、検校になり、十老の内までへ上り、九十まで生きられて(仝上)、
とある、
検校、
は、
座頭官位の最高職、
で、
十老、
は、
検校の中の長老職、全国座頭の惣頭職、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
(検校 精選版日本国語大辞典より)
「検校」は、
建業、
とも表記する(精選版日本国語大辞典)。
座頭の官位、
は、
座頭、
勾当、
別当、
検校、
の四階級からなり、金で官位を買うのが普通、
ともある(仝上)。
「検校」は、
此の語、撿挍、檢挍、檢校と三使用あり、語原に従ひて、檢校(検校)と定む、
とある(大言海)が、
撿挍(けんこう)、
は漢語で、
唐代の官名(唐書・百官志)、
とあり、
檢挍、
と同じとある(字源)。「検校(けんげう)」は、
点検典校、
の意からきており(日本大百科全書)、
点検し勘校する、
意として(広辞苑)、あるいは、
殿、左の馬寮うまづかさの検校(けんげう)し給ふ(宇津保物語)、
などと、
検査し監督する、
意で使うが、中国では、
経籍(けいせき)をつかさどる官名、
などに用いる。因みに、「経籍」は、
きょうしゃく、
とも、また、
「Physica……カノガクモンヲ スル qiǒjacu(きゃうじゃく)(「羅葡日辞書(1595)」)、
と、
きょうじゃく、
とも訓ませ、
経典やそのほかの文書、
の意である(精選版日本国語大辞典)。南北朝以来、
検校御史、
検校祭酒、
など、
正官を授けられずその任にあたるとき、仮官として検校の字を冠する、
という(世界大百科事典)。宋代には、
検校太師から検校水部員外郎まで多くの名目的な、
検校官、
があり、武官に文官の肩書として与え、また文官を武官に任命するときこれを加えた。元代の中書省には、
検校官、
という公文書を扱う官があり、明代の各官庁にも置かれ、清代には各府に置かれた(仝上)とある。
日本では、
事務を検知校量する、
ことから、
郡司、検校を加へず、違ふこと十事以上ならば即ちその任を解く(続日本紀)、
と、
平安・鎌倉時代の荘官(しょうかん)の職名に用いられた(仝上)。特に僧職の名として用いられる場合が多く、
寺社の事務を監督する職掌、
をいい(日本大百科全書)、
(石清水八幡の)馬場殿の御所あきたり。検校などが籠りたる折もあけば(「問はず語り(鎌倉時代の中後期)」)、
と、
東大寺・高野山・石清水・春日、
など重要な寺社に置かた(大辞林)、常置の職としては、寛平八年(896)、
東寺の益信(やくしん)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)検校に任ぜられた、
のが初出で、
高野山(こうやさん)、熊野三山、無動寺、
などにおいても、一山を統領する職名で、
法会(ほうえ)や修理造営の行事を主宰する者、
の呼称としても用いられる(仝上)。
いわゆる、
琵琶・管弦、および按摩・鍼治などを業とした盲人に与えられた官位の総称、
の意の、
盲官(もうかん)、
としての、
検校、
は、
仁明天皇(810~50年)の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の二官が与えられた、
のが嚆矢とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1)。室町時代には、
明石覚一(覚一検校)、
によって組織化されたといわれる盲目の琵琶法師(びわほうし)仲間、
当道(とうどう)座、
の長老も検校とよばれ、紫衣を着し、両撞木(モロシユモク)の杖をもつことが許された(大辞泉)。『師守(もろもり)記』貞治(じょうじ)二年(1363)の、
覚一(かくいち)検校、
が初見とされる(日本大百科全書)。
「当道(とうどう)」というのは、
その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され、室町幕府の庇護を受けるに及んで、平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成、宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して、みずからを、
当道、
と呼称した(世界大百科事典)ことからきている。「当道」は、
特定の職能集団が自分たちの組織をいう語、
だが、したがって、狭義には特に、
室町時代以降に幕府が公認した盲人の自治組織、
をいい(ブリタニカ国際大百科事典)。そののち、
妙観、師道、源照、戸嶋、妙聞、大山、
の六派に分かれ、一種の「座」として存在し、その内部で階級制を生じ、
検校、別当、勾当、座頭、
の別を立て(仝上)、特に最高位の検校は、
職検校、
または、
総検校、
といい、1人と定められ、職屋敷を統括した(仝上)とある。江戸時代には当道座が幕府によって認められ、
惣(そウ)検校、
の下に、
検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)、
の官位があり(日本大百科全書)、さらに細分して、
16階73刻、
に制定された(ブリタニカ国際大百科事典)。
江戸には関八州の盲僧を管轄する、
惣録(そうろく)検校、
総検校、
も置かれ、
平曲のほか地歌、箏曲(そうきょく)、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)、
などに従事する者で官位を目ざす者は試験を受け、多額の金子(きんす)を納めてこの職名が授けられた(日本大百科全書)。検校になるためには、1000両を要するといわれ、総検校は10万石の大名と同等の格式があった(ブリタニカ国際大百科事典)。
因みに、「平曲」というのは、
平家琵琶、
平語(へいご)、
平家、
とも呼ばれた、
琵琶を弾きながら、《平家物語》の文章を語る語り物音楽、
をいい(世界大百科事典)、
《平家物語》の詞章の改訂に着手した如一の弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)がさらに改訂・増補を重ね、〈覚一本〉とよばれる一本を完成し、一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった、
とされる(仝上)。
江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となったようだ。
平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられたが、それには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認された。最低位から検校になるまでには総じて、
719両、
が必要であった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1)という。
江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となり、また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。
(絹本著色塙保己一像(住吉広定(弘貫) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80より)
学者として有名な検校には、「群書類従」の編者、
塙保己一(保己一)、
音楽家としては、生田流箏曲の始祖、
生田検校(幾一)、
山田流箏曲の始祖、
山田検校(斗養一)、
鍼で管鍼法を確立した、
杉山和一(和一)、
地歌の「京流手事物」を確立、多くの名曲を残した、
松浦検校(久保一)、
将棋の戦法のひとつである石田流三間飛車の創始者、
石田検校、
等々がいるが、
勝海舟、男谷信友の曽祖父、
米山検校(銀一 男谷検校)、
もいる(仝上)。
(杉山和一(冨士川游の『日本の医学史』(1904年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%92%8C%E4%B8%80より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95