最手(ほて)に立ちて、いくばくの程をも経ずして脇にはしりにけり(今昔物語)、
これが男にてあらましかば、合ふ敵なくて最手なむどにてこそあらまし(仝上)、
とある、
最手、
は、主位の相撲、
脇、
は、
次位の相撲、
と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が、これだとわかりにくい。
最手、
は、
秀手、
とも当て、
すぐれたわざ、
上手、
てだれ、
の意で、
相撲節(すまいのせち)で、力士の最上位の者の称、
をいい、後世の、
大関にあたり(広辞苑・大言海)、
ほつて、
とも訓ませる。「最手」の語源は、
秀手(ほて)の義(大言海)、
秀(ほ)の意(岩波古語辞典)、
ホは秀の意。(「ほつて」の)ツは連体格助詞(広辞苑・大辞林)、
である。
脇、
は、
最手脇(ほてわき)、
最手の脇(ほてのわき)、
のことで、
相撲節(すまいのせち)で、最手に次ぐ地位の力士、
をいい、現在の、
関脇、
にあたり(仝上)、
助手(すけて・すけ)、
占手(うらて)、
ともいう(岩波古語辞典・大辞林・大辞泉)。和名類聚抄(931~38年)に、
相撲……本朝相撲記、有占手、垂髪総角、最手、助手等之名別、
とあり、平安時代後期の有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』(大江匡房)に、
内取御装束、……一番最手與助手取之、
裏書に、
助手、又曰腋也、最手、腋手、皆近衛府各補其人也、
とある。また平安時代に編纂された歴史書『三代実録』(『日本三代実録(にほんさんだいじつろく』)は、
膂力之士左近衛阿刀根継、右近衛伴氏長竝、相撲最手、天下無雙(仁和二年(886)五月廿八日)、
とある。
「すまふ」で触れたように、
すまひ、
は、
相撲、
角力、
と当て、
乃ち采女を喚し集(つと)へて、衣裙(きぬも)を脱(ぬ)きて、犢鼻(たふさぎ)を着(き)せて、露(あらは)なる所に相撲(スマヒ)とらしむ(日本書紀)、
と、
互いに相手の身体をつかんだりして、力や技を争うこと(日本語源大辞典)、
つまり、
二人が組み合って力を闘わせる武技(岩波古語辞典)、
要するに、
すもう(相撲)、
の意だが、今日の「すもう(相撲・角力)」につながる格闘技は、上代から行われ、「日本書紀」垂仁七年七月に、
捔力、
相撲、
が、
すまひ、
と訓まれているのが、日本における相撲の始まりとされる(日本語源大辞典)。「捔力」は、中国の「角力」に通じ、
力比べ、
を意味する(日本語源大辞典)。字鏡(平安後期頃)にも、
捔、知加良久良夫(ちからくらぶ)、
とある(日本語源大辞典)。中古、天覧で、
儀式としての意味や形式をもつもの、
とみられ、
其、闘ふ者を、相撲人(すまひびと)と云ひ、第一の人を、最手(ほて)と云ひ、第二の人を、最手脇(ほてわき)と云ふ、
とあり(大言海)、これが、制度として整えられ、
勅(ちょく)すらく、すまひの節(せち)は、ただに娯遊のみに非ず、武力を簡練すること最も此の中に在り、越前・加賀……等の国、膂力の人を捜求して貢進せしむべし(続日本紀)、
とある、
相撲の節会、
として確立していく(仝上)。これは、平安時代に盛行されたもので、
禁中、七月の公事たり、先づ、左右の近衛、力を分けて、國國へ部領使(ことりづかひ)を下して、相撲人(防人)を召す。廿六日に、仁壽殿にて、内取(うちどり 地取(ちどり))とて、習禮あり、御覧あり、力士、犢鼻褌(たふさぎ 下袴(したばかま 男が下ばきに用いるもの))の上に、狩衣、烏帽子にて、取る。廿八日、南殿に出御、召仰(めしおほせ)あり、力士、勝負を決す。其中を選(すぐ)りて、抜出(ぬきで)として、翌日、復た、御覧あり、
とあり(大言海)、その後、
承安四年(1174)七月廿七日、相撲召合ありて、その後絶えたるが如し、
とある(仝上)。また、別に、
相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること(古今著聞集)、
ともある(日本語の語源)。高倉天皇は在位は、応保元年(1161)~治承四年(1181)、承安から安元に改元したのが1175年、安元から治承に改元したのが1177年なので、安元から治承への改元前後の頃ということか。なお、「犢鼻褌(たふさぎ・とくびこん)」については「ふんどし」で触れた。
(当麻蹴速と角力を取る野見宿禰(月岡芳年『芳年武者无類』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%A6%8B%E5%AE%BF%E7%A6%B0より)
スマヒの勝ちたるには、負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり(今昔物語)、
とあるように、禁中では、相撲の節会は滅びたが、民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた(日本語源大辞典)とある。また、「すまひ(相撲)」は、武技の一のひとつとして、昔は、
戦場の組打の慣習(ならはし)なり。源平時代の武士の習ひしスマフも、それなり、
と、
組討の技を練る目的にて、武芸とす。其取方は、勝掛(かちがかり 勝ちたる人に、その負くるまで、何人も、相撲(すまふ)こと)と云ふ。此技、戦法、備わりて組討を好まずなりしより、下賤の業となる(即ち、常人の取る相撲(すまふ)なり)、
とあり(大言海)、どうやら、戦場の技であるが、そういう肉弾戦は、戦法が整うにつれて、下に見る傾向となり、民間競技に変化していったものらしい。
その装束は、「犢鼻褌」で触れたように、
ふんどし(褌)のようなもの
とされ、
今の越中褌のようなもの、まわし、したのはかま(岩波古語辞典)、
股引の短きが如きもの、膚に着て陰部を掩ふ、猿股引の類、いまも総房にて、たうさぎ(大言海)、
肌につけて陰部をおおうもの、ふんどし(広辞苑)、
等々とあるので、確かに、
ふんどし、
のようなのだが、「ふんどし」で触れたことだが、
犢鼻(とくび)、
と当てたのは、それをつけた状態が、
牛の子の鼻に似ていること(「犢」は子牛の意)、
からきている(日本語源大辞典)とする説もあり、確かに、和名類聚抄(平安中期)に、
犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、衳子(衳(ショウ)は下半身に穿く肌着、ふんどしの意)、毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき 裳下(ものしたの)犢鼻褌)、一云水子、小褌也、
とあり、下學集(文安元年(1444)成立の国語辞典)にも、
犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、
とある。しかし、江戸中期の鹽尻(天野信景)は、
隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、
とする。つまり、「ふんどし」状のものを着けた状態ではなく、「したばかま」と言っているものが正しく、現在でいうトランクスに近いものらしいのである。記紀では、
褌、
を、
はかま、
と訓ませているので、日本釈名に、
犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、
と言っているのが正確のようである。
(「最」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%80より)
「最」(サイ)は、
会意文字。「おおい+取」で、かぶせた覆いを無理におかして、少量をつまみ取ることを示す。撮(ごく少量をつまむ)の原字。もと、極少の意であるが、やがて「少ない」の意を失い、「いちばんひどく」の意を示す副詞となった、
とある(漢字源)が、別に、
形声。「宀」+音符「取 /*TSOT/」、「宀」が変形して「曰」の形となった。「あつまる」を意味する漢語{最 /*tsoots/}を表す字、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%80)、
会意。冃(ぼう=冒。おかす意。曰は変わった形)と、取(とる)とから成り、むりに取り出す意を表す。「撮(サイ、サツ)」の原字。借りて、「もっとも」の意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意文字です(日(冃)+取)。「頭巾(ずきん)」の象形と「左耳の象形と右手の象形」(戦争で殺した敵の左耳を首代わりに切り取り集めた事から、「とる」の意味)から頭巾をつまむを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、他と区別して特別とりあげる、「もっとも・特に」を意味する「最」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji661.html)、説が分かれている。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95