2023年06月12日
受難としての自由
J・Pサルトル(松浪 信三郎訳)『存在と無』を読む。
若い頃に読んだとき、サクサクと読めた、という印象がある。その時のラインの跡をみると、一定程度は理解していたのかとは思うのだが、老年になって読み返してみると、本当にサクサクと読めたのか、と疑問にはなる。
しかし、改めて、良くも悪くも、本書は、
饒舌、
だと思う。それを、
懇切、
ととるか、
軽薄、
ととるか。。。今日、サルトルの「サ」の字も聞かないところを見ると、もはやあまり顧みられることはない書なのかもしれない。読み終わって見て、かなり時代遅れの部分がなくもないが、しかし、そう、
実存主義、
の、
「自己を逃れ出る」、
ものとしての、
自己投企、
は、いまだ生きている、いや、
生きていなくてはならない、
と実感させられた。
それがあるところのものであり、それがあらぬところのものであらぬような存在、
である、
即自存在、
に対する、
それがあらぬところのものであり、それがあるところのものであらぬような存在、
である、
対自存在、
との関係を、ふと、
『死にいたる病』の冒頭、
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」
を思い出した。まさに、
ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である、
人間という現象を、
「現われの背後には何ものも存在しないし、また現われは現われ自身を指示しない」(緒論)、
「それがあるとおりに」(仝上)、
「対自は、即自に対する関係である。対自は、即自に対する唯一可能な関係ですらある。あらゆる面で即自によって、とりかこまれている対自が、即自から脱出するのは、対自が、何ものでもあらぬからでしかない。対自は、何ものでもないものによって、即自から切り離されている。対自はあらゆる否定性の根拠であり、あらゆる関係の根拠である。対自は関係である。」(429)
その関係を、他人の対自との関係も含めて、広く、つぶさに検討しているのである。
確か、うろ覚えだが、ハイデガーは、
人は、死ぬまで可能性の中にある、
というようなことを言っていたと思うが、併せて、
現存在は、死に関わる存在、
でもある、といっていたようだ。サルトルはそれに反応して、
「人間存在は、意味づける存在」(621)、
ではあるが、死は、
「私の諸可能性に対する常に可能な一つの無化であり、かかる無化は私の諸可能性の外にある」(621)、
ものであり、
「私自身の可能性であるどころか、むしろ、死は一つの偶然的な事実である。この事実は、かかるものとしてのかぎりにおいて、原理的に私から脱れ出るものであり、根原的に私の事実性に属するものである。私は、私の死を発見することもできないであろうし、私の死を期待することもできないであろうし、私の死に対して一つの態度をとることもできないであろう。なぜなら、私の死は、発見されえないものとして自分を顕示するところのものであり、すべての期待をむなしくさせるところのものであり、すべての態度のうちに、特にわれわれが自分の死に対してとるであろう態度のうちに忍びこみ、それらの態度を、外面的な凝固した行為へと変化させ、それらの行為の意味が永久に、われわれ自身にではなく他人たちに、委ねられるようにさせるところのものであるからである。死は、誕生と同時に、一つの単なる事実である。死は、外からわれわれにやって来て、われわれを外へと変化させる。」(630)
と、投企の埒外においやるところは、ちょっと見事である。
実存というと、たとえば、
「人間存在は、否定という自己自身の可能性へ向かって自己を超出することによって、超出による否定を世界に来たらしめるものとなる。」(246)
「人間存在にとって、存在するとは、自己を選ぶことである。」(516)
「われわれは自身を選ぶことによって、世界を選ぶ」(541)
「自由とは、自己の存在の選択であって、自己の存在の根拠ではない……。人間存在は、自分の思うままに自己を選ぶことができるけれども、自己を選ばないことはできない。しかも、人間存在は、存在することを拒否することもできない。事実、自殺は、存在することの選択であり、存在することの肯定である。」(559)
「自由は、ただ単に偶然性であるのではない。自由は、偶然性からの不断の脱出である。自由とは、偶然性を内面化することであり、偶然性を無化することであり、偶然性を主観化することである。」(559)
等々、しかし、手放しなのではない。
「自由が、自由であるべく呪われている」(591)
「おのおのの人間存在は、自己自身の対自を『即自―対自』に変身させようとする直接的な企てであると同時に、一つの根本的な相のもとに、即自存在を全体としての世界を我がものとしようとする企てである。あらゆる人間存在は、彼が、存在を根拠づけるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって偶然性から脱れ出ているような即自すなわち、宗教では神と名づけてられいる自己原因者を、構成するために、あえて自己を失うことを企てるという点で、一つの受難である。」(708)、
と、
「人間は一つの無益な受難である」
と言い切っている。でも、
そこから逃れることはできない、
というのが要である。
本書は、
「現代思想は、存在するものを、それをあらわす現われの連鎖に、還元することで、いちじるしい進歩をとげた、それによって、哲学を悩ましているさまざまの二元論を克服し、これにかえる現象の一元論をもってしようとするのが、その狙いであった。はたしてそれは成功したであろうか?」(11)
この問いへの答えが、本書である。そして、本書は、
「ことに、自由は、みずからを目的たらしめることによって、あらゆる状況から脱れ出ることになるであろうか? それとも、反対に、自由は状況づけられたままにとどまるであろうか? あるいはまた、自由が条件づけられた自由として、不安のうちに、ますます自分を投企し、世界を存在にいたらせる存在者という資格で、自分の責任をますます身に引き受けるようになるであろうだけに、自由は、それだけいっそう明確に、いっそう個別的に、自分を状況づけるであろうか? 」(722)
という問いで終わっている。その答えの領域を、サルトルが、
道徳的領域、
と想定しているのは、今日の状況から見て、ちょっと的を外しているような気がするのは、外れているであろうか。しかし、サルトルは、この問いへの答えを提出していない。
参考文献;
J・Pサルトル(松浪 信三郎訳)『存在と無』(人文書院)
キルケゴール(桝田啓三郎訳)『死にいたる病』(桝田啓三郎編『キルケゴール(世界の名著40)』)(中央公論社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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