円融院の天皇、位去らせ給ひて後、御子(おんね)の日に逍遥の為に、船岳(ふなをか)と云ふ所に出でさせ給ひけるに(今昔物語)、
の、
御子の日、
は、
「子の日」に、接頭辞「御」がついたもの、
で、
子の日、
は、
正月の子の日に野に出て遊ぶ風習があった、
とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。
子の日、
は、
ねのひ、
と訓ませるが、後に、「日葡辞書」「書言字考節用集」で、
ねのび、
と濁音である(岩波古語辞典)。ここでは、
子の日の遊び、
の略である。
子の日、
は、
正月の初めの子の日に、野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、
とあり(岩波古語辞典)、この宴を、
子の日の宴(ねのひのえん)、
といい、
若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、
とあり(大言海)、
士庶も倣ひて、七種の祝いとす、
とある(仝上)。「七草粥」で触れたように、
羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、
とある(大言海)、当初は、粥ではなく、
羹(あつもの)、
であり、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、
子の日に引く小松、
を、
引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、
と、
子の日の松、
といい(仝上)、
小松引き、
ともいい、
幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、
という(大言海)。
子の日遊び、
は、
根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、
「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、
とある。また、正月の初めの子の日に、
内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、
を、
子の日の若菜(わかな)、
という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
(「子」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%90より)
(「子」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%90より)
「子」(漢音呉音シ、唐音ス)は、
象形。子の原字に二つあり、ひとつは小さい子どもを描いたもの。もうひとつは子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して、子と書かれる、
とある(漢字源)。他に、
象形。こどもが手を挙げている形にかたどり、おさなご、ひいて、若者の意を表す。借りて、十二支の第一位に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji29.html)、子どもの説のみを取っている。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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