侠客と角力の淵源


柴田宵曲編(三田村鳶魚著)『侠客と角力』を読む。

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本書は、

博奕打の話、
侠客の話、
雁金五人男、
角力の話、
角力風俗、
晴天十日、
捌き物の話、

が収録されているが、表題通り、

博奕打の話、
侠客の話、
雁金五人男、

の、

侠客、

角力の話、
角力風俗、
晴天十日、



角力、

がほとんどである。編者(柴田宵曲)が言うように、大東出版社刊「江戸ばなし」に収録された折、

「股旅の話」となつてゐたのを「博奕打の話」に改めた、

とある。 三田村鳶魚は、

股旅といふ言葉を知らぬと云つてゐる、

からである。後世の作家の造った造語らしい。

侠客なるものは最初武士の畠に発生し、次いで市井の無頼の姿となり、世の下るに従つて専ら博奕打を指すやうになつた、

という経緯は、「江戸ツ子」で触れた。本書で面白いのは、後半の、江戸時代の、

角力、
角力取り、

の話である。ただ、

角力の話は「江戸ばなし」所載の講述の外に、春陽堂刊「江戸雑話」に収められた「深川の勧進角力」がある。同じ時代を押へたものだけに、時に重複を免れぬが、互に相補ふ点が少くないので、全然同一の箇所を除き、両者を併存することにした、

とあるように、話の重複、前後するところがあって、読みにくいことおびただしい。

しかし、本書の話は、

角力史、

ではなく、時世乃至民心に重きを置いた、

角力風俗の変遷、

ということになる(解説)。

侠客と角力とはもともと似たやうな畠から発生したものである。幕府が遊侠無頼の徒を取締る一方便として勧進角力 を許可し、角力が次第に職業化する、

プロセス(仝上)は、ただ、

力自慢だけ、

の勝負から、柔の技を取り入れた、

藝、

としての角力という経緯と重なっており、今日の角力の淵源が見通せるのもなかなか興味深い。

「角力人が武芸者として扱はれた元禄以前に在つては、無論角力の術などといふものはない。飽くまでも体力本位、腕づく」

で、そこでは、

「身体の大きい、力の強いやつなら必ず勝つ。 技術ではないのですから、番狂はせだの、面白い勝負だのといふものはない」

ものに、柔の手を取入れた結果、

「だんだん技術的になつて参り……角力の勝負もいろいろな形式に現れて来る」

ようになる、その面で組んで著名なのが、紀州(藩)の抱力士、

鏡山沖右衛門、

という。これを、

紀州流、

といい、角力の節会以来の形式を、

古風、

とすると、この、

新角力術、

を、

新古、

といい、

「元禄度に起つた鏡山一流の技術が、享保に至つて完成し」

この時期、

四十八手、
とか、
八十八手、

という言い方が登場し始める。まさに今日の相撲の淵源である。

芸角力、

という呼び名ができ、無敵の、

谷風、

を破ったのは、

「私は弱いから、とても谷風の敵でない、これこそ角力の術で行くより仕方がない」

と述懐し、立ち合いの工夫をした、

八角、

なのである。「相撲(すまひ)の節会」については、「すまふ」、「最手(ほて)」、「犢鼻褌(たふさぎ)」で触れた。

また、三田村鳶魚については、『武家の生活』、『江戸ッ子』、『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』で触れた。

参考文献;
柴田宵曲編(三田村鳶魚著)『侠客と角力』(Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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