観音勢至の遣水は、阿耨多羅(あのこたら 阿耨多羅)とぞ流れ出(い)づる、流れたる……(梁塵秘抄)、
の、
観音(かんのん)、
は、
観音菩薩、
勢至(せいし)、
は、
勢至菩薩、
の意かと思う。「菩薩」は、
菩、普也、濟也、善普濟衆生(金剛経・注)、
と、
菩提薩埵の略、
である(大言海)。「薩埵」は、
梵語sattvaの音訳、
で、
薩埵婆(さったば)の下略、
であり(仝上)、
有情(うじょう)、衆生(しゅじょう)、およそ生命あるもののすべての称、
の意とある(広辞苑・ブリタニカ国際大百科)が、さらに、
梵語bodhisattvaの音訳、
で、
菩提薩埵(ぼだいさった)の略、
であり、仏教において、
菩提(bodhi、悟り)を求める衆生(薩埵、sattva)、
の意味とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9)、元来は、
仏教の創始者釈尊の成道(じょうどう 悟りを完成する)以前の修行の姿をさしている、
とされる(日本大百科全書)。だから、釈迦の死後百年から数百年の間の仏教の原始教団が分裂した諸派仏教の時代、『ジャータカ』(本生譚 ほんじょうたん)は、釈尊の前世の修行の姿を、
菩薩、
の名で示し、釈尊は他者に対する慈悲(じひ)行(菩薩行)を繰り返し為したために今世で特別に仏陀になりえたことを強調した(仝上)。故に、この時代、
菩薩はつねに単数、
で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊だけを意味した(仝上)。だから、たとえば、「薩埵」も、
釈迦の前身と伝えられる薩埵王子、
を指し、
わが身は竹の林にあらねどもさたがころもをぬぎかける哉、
とある(宇治拾遺物語)「さた」は、
薩埵脱衣、長為虎食(「三教指帰(797頃)」)、
の意で、
釈迦の前生だった薩埵太子が竹林に身の衣装を脱ぎかけて餓虎を救うために身を捨てた、
という故事(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)で、法隆寺玉虫厨子の蜜陀絵にも見える(仝上)。しかし、西暦紀元前後におこった大乗仏教は、『ジャータカ』の慈悲行を行う釈尊(菩薩)を自らのモデルとし、
自らも「仏陀」になること、
を目ざした。で、
菩薩は複数、
となり、大乗仏教の修行者はすべて菩薩といわれるようになり(日本大百科全書)、大乗経典は、
観音、
弥勒、
普賢、
勢至、
文殊、
など多くの菩薩を立て、歴史的にも竜樹や世親らに菩薩を付すに至る(百科事典マイペディア)。で、仏陀を目ざして修行する菩薩が複数であれば、過去においてもすでに多くの仏陀が誕生しているとされ、薬師、阿弥陀、阿閦(あしゅく)などの、
多仏思想、
が生じ、大乗仏教は、
菩薩乗、
もいわれる(仝上)
(観音菩薩 精選版日本国語大辞典より)
観音、
は、
観世音(かんぜおん)の略、
で、
「かんおん」の連声、
である(精選版日本国語大辞典)。
観世音、
は、
梵語Avalokiteśvara、
の訳語、
観察することに自在な者、
の意で、「妙法蓮華経」普門品(観音経)などに説かれる菩薩である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
世の衆生がその名を唱える音声を観じて、大慈大悲を垂れ、解脱を得させるという菩薩、
であり、また、
勢至菩薩、
と共に、
阿彌陀如来、
の脇侍であり、衆生の求めに応じて種々に姿を変えるとされ、
観音の普門示現(ふもんじげん)、
といい、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、
衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ、
と(観音経・普門品偈文)、
観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身する、
と説かれており(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9)、
三十三観音、
といい、西国三十三所の観音霊場はその例になる。その形の異なるに従い、
千手(せんじゅ)、十一面、如意輪(にょいりん)、准胝(じゅんてい)、馬頭(ばとう)、聖(しょう)、
を、
六観音、
不空羂索(ふくうけんさく・ふくうけんじゃく)、
を含めて、
七観音、
というなど様々の異称がある(マイペディア)が、普通には聖観音をさす(精選版日本国語大辞典)とある。で、「観音」には、
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、
救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)、
施無畏者(せむいしゃ 人々の苦しみを救い、無畏を施す)、
等々多数の別名がある。その住所は、摩頼耶山(まらやさん)中の、
補陀洛(ふだらく)山(サンスクリットのポータラカPotalakaの音訳)、
とされ、中国では舟山列島中の、
普陀山普済寺、
日本では、
那智山、
を当てる(仝上・広辞苑)。
(勢至菩薩 精選版日本国語大辞典より)
勢至菩薩(せいしぼさつ)、
は、サンスクリット語、
マハースターマプラープタMahāsthāmaprāpta、
の、
偉大な勢力を得たもの、
の意で、
大(だい)勢至、
得(とく)大勢、
などと訳し、その略名が、
勢至、
である(日本大百科全書)。
此、云、大勢至、思益云、我投足之處、震動三千大千世界及魔宮殿、故、名大勢至、観経云、以智慧光、普照、一切、令離三塗得無上力、是故、號此菩薩名大勢至(「翻訳名義集(南宋代の梵漢辞典)」)、
と、
智慧(ちえ)の光をもってすべてのものを照らし、もろもろの苦難を離れさせ、無上なる力を得させるので、この名がある、
という(仝上)。観音は、宝冠の中に、
化仏(けぶつ 頭上に阿弥陀像)、
をつけるのに対して、勢至は、
宝瓶(ほうびょう)、
をつける(精選版日本国語大辞典)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95