2023年09月10日
四句の偈
摩耶の胎(なか)から生(むま)れ出て、寶の蓮(はちす)足をうけ、十方七度(ななたび)歩みつつ、四句の偈(げ)をぞ説(と)いたまふ(梁塵秘抄)、
十方(じっぽう)
とは、
東・西・南・北の四方、
と、
艮(うしとら=北東)、巽(たつみ=東南)、坤(ひつじさる=南西)、乾(いぬい=西北)の四隅(四維(しゆい・しい)とも)、
と、さらに、
上・下を合わせた称(精選版日本国語大辞典)をいい、
あらゆる方角、場所、
つまり、
あらゆる世界
の意で、
十方世界、
という。仏教で、
十方三世(じっぽうさんぜ)とは、
過去、現在、未来にわたるあらゆる時間とあらゆる空間、
を意味し、大乗仏教では、われわれの住む、
娑婆(しゃば)世界、
のほかに、十方に無量の世界、すなわち、
十方世界、
があり、そこには一世界に一仏の割合で三世にわたって無数の仏が出現すると説き(日本大百科全書)、
十方三世の諸仏、
という(仝上)とか。まるで今日の多次元宇宙のようでもある。
四句(しく)の偈(げ)、
は、
四句の文(しくのもん)、
ともいい、
諸行無常、
是生滅法、
生滅滅已、
寂滅為楽、
といった、
四句からなる偈の文句、
をいう(精選版日本国語大辞典)。「是生滅法」(ぜしょうめっぽう)で触れたように、
諸行無常(しょぎょうむじょう 諸行は無常なり)、
是生滅法(ぜしょうめっぽう 是れ生滅の法なり)、
生滅滅已(しょうめつめつい 生滅を滅し已(お)わりて)、
寂滅為楽(じゃくめついらく 寂滅を楽となす)、
は、涅槃経の、「雪山童子」の説話で、
釈尊は過去世に雪山で修行していたので雪山童子(せっせんどうじ 雪山大士)と呼ばれるが、雪山に住していたとき帝釈天が羅刹(ラークシャサ)の形をして現れてこの偈の前半を説いたとき、さらに後半を教えてもらうために身を捨てた、
という伝説があるので(自分の身命を施す菩薩行の代表例として引用されることが多い)、
雪山偈(せっせんげ)、
と呼び(「雪山」はヒマラヤを指すとされる)、
諸行無常偈、
無常偈、
ともいい(http://www.joukyouji.com/houwa0604.htm)、偈の全体の意味は、三法印(仏教の根本にある三つの概念)の、
諸行無常(あらゆる物事(現象)は変化している。変化しない、固定的な物事は存在しない)、
諸法無我(あらゆる存在(ダルマ 法)の中には我(アートマン)は無い)、
涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地(ニルヴァーナ 涅槃)は心が安らかに落ちついた(至福の)状態である)、
に近いとされ、法然は、
かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする、
と詠い、俗説に、
いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)、
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)、
うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)、
あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)、
の、
いろはうた、
がこれを訳したものと言われ(仝上)、「無上偈」は、
諸行无常、是生滅法と云ふ音(こゑ)風のかに聞こゆ(「観智院本三宝絵(984)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり(光悦本謡曲「三井寺(1464頃)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり、晨朝(しんちょう)の響きは生滅滅已、入相(いりあい)は寂滅為楽と響くなり(長唄「娘道成寺」)、
等々と使われる(仝上・精選版日本国語大辞典)、
偈(げ)、
は、
サンスクリット語ガーターgāthā、
の音写の省略形、
で、漢語では、
頌(じゅ)、
あるいは、
讃(さん)、
とも翻訳される、
仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、
をいい、
偈陀(げだ)、
伽陀(かだ)、
とも音写し、意訳して、
偈頌(げじゅ)、
ともいい、対して散文部分を、
長行、
という(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88)とある。古来インド人は詩を好み、仏典においても、詩句でもって思想・感情を表現したものがすこぶる多い。漢語では、これを三言四言あるいは五言などの四句よりなる詩句で訳出される。たとえば、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で、
諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸善(しょぜん 衆善)奉行(ぶぎょう)、
自浄其意(じじょうごい)、
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、
とか、法身偈(ほっしんげ)で、
諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)、
如来説是因(にょらいせつぜいん)、
是法従縁滅(ぜほうじゅうえんめつ)、
是大沙門説(ぜだいしゃもんせつ)、
と共に、「雪山偈」も仏教の根本思想を簡潔に表現したもの(日本大百科全書)とされる。四句から成るものが多いため、単に、
四句、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
四句の偈、
は、
要偈(ようげ)、
伝法要偈(でんぼうようげ)、
ともいい、
聖光(しょうこう)の『授手印』の袖書に、
究竟大乗浄土門(くきょうだいじょうじょうどもん)
諸行往生称名勝(しょぎょうおうじょうしょうみょうしょう)
我閣万行選仏名(がかくまんぎょうせんぶつみょう)
往生浄土見尊体(おうじょうじょうどけんぞんたい)
のこと(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A6%81%E5%81%88)とあり、
究竟大乗浄土門、
は、
大乗仏教の究極の教えは浄土門である、
との意味で、『無量寿経』の本旨を要約した一句であるとともに、阿弥陀仏の選択を意味する内容でもある(仝上)。
諸行往生称名勝、
は、
様々な実践行においても回向さえできれば極楽世界に往生することは可能ではある、
との意味で、しかし、
末代の凡夫にそのような回向は極めて困難である。末代の凡夫はただ選択本願称名念仏一行のみで極楽世界に往生するのだ。選択本願称名念仏一行こそが、あらゆる実践行の中で最も勝れているのだ、
という趣旨で、『観経』の総意をまとめた一句となっており、釈尊の選択を意味する内容でもある。
我閣万行選仏名、
は、
私は一切の他の実践行を捨てて、ただ称名念仏一行のみを選び取る、
という意味で、『阿弥陀経』の総意をまとめた内容であり、また諸仏の選択を意図した内容でもある(仝上)。この「私」とあるのは、
称名念仏一行を選択した阿弥陀仏であり、また阿弥陀仏の救済と念仏の教えこそが真実の教えであるとした釈尊であり、また念仏一行のみを絶讃した諸仏であり、そして阿弥陀仏が人の姿としてこの世界に現れ本願念仏を説いた善導でもある、
とある(仝上)。
往生浄土見尊体、
は、
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、阿弥陀仏と相見あいまみえる、
という意味で、「浄土三部経」の総意であると共に、阿弥陀仏と釈尊と諸仏の選択を意図した内容でもある(仝上)。
「偈」(漢音ケイ・ケツ、呉音ゲ・ゲチ)は、「是生滅法」で触れたように、
会意兼形声。「人+音符曷(カツ 声をからしてどなる)」、
とある(漢字源)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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