大日如来


もし大日如来をうちたてまつれる人をば蓮花の座にすゑて讚む(「観智院本三宝絵(984)」)、

とある、

大日如来(だいにちにょらい)、

は、「五智」でも触れたが、梵語、

Mahāvairocana、

の音写は、

摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)、

と音写し、

梵音、毘盧遮那者、是日之別名、即除暗遍明之義也(大日経疏)、

と、

大日、

は、その訳、

大遍照、
大日遍照、
遍一切処、
遍照(へんじょう)王如来、

などとも漢訳、

摩訶毘盧遮那如来、
大光明遍照(だいこうみょうへんじょう)、

とも呼ばれる(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)。

その光明が遍(あまね)く照らす、

ところから、

遍照(へんじょう)
または、
大日、

という(広辞苑)。大日とは、

「偉大な輝くもの」(サンスクリット語マハーバイローチャナMahāvairocana)、

の訳、つまり、元は、

太陽の光照のことであったが、のちに、

宇宙の根本の仏、

の呼称となった(日本大百科全書)とある。この意味は、真言密教では、

法界、いわゆる森羅万象あるいは全宇宙は、六大(地・水・火・風・空という物質的要素と、識という本源的な精神的要素)を本体、

と考え、この六大が法身大日如来を象徴するという。つまり、

森羅万象・全宇宙に遍満し、森羅万象・全宇宙は大日如来の活動の顕現、

であり、大日如来そのもののありよう(自性法身)とする。さらに大日如来には、

法(ダルマ)を法として受け止めるありよう(自受用法身)と、また他にそれを受け取らせようとするありようがあり、

阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・弥陀・不空成就の四仏、あるいは他の仏・菩薩、

として顕現するありよう(他受用法身)があり、さらに変化(へんげ)法身、等流(とうる)法身というありようから、

いかなる他者にも対応した姿をとって顕現する、

という。こうした点において大日如来は、

仏・菩薩をはじめ教化者すべてを包括する総体、

とも言われるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5からにほかならない。

大日経(『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)』)・金剛頂経((こんごうちょうぎょう、こんごうちょうきょう)の中心尊格、

で、日本密教では、

両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)、

の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主とされ、

「万物の慈母」とされる汎神論的な仏、

で(広辞苑)、

声字実相を突き詰めると全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出している、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

大日経系の胎蔵界、
と、
金剛頂経系の金剛界、

との二種の像がある(広辞苑)。

胎蔵界大日如来.jpg

(胎蔵界大日如来 広辞苑より)


金剛界大日如来.jpg

(金剛界大日如来 広辞苑より)

大日如来の「智」の面を表したのが、

金剛界の大日如来、

「理」の面を表したのが、

胎蔵界の大日如来、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5。金剛界の大日如来は、

智拳印を結んで周囲に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏、

を置き(金剛界五仏)、胎蔵界の大日如来は、

中台八葉院の中央に位して法界定印を結ぶ(仝上)。つまり、金剛界大日は、

胸の前にあげた左拳の人差し指をのばし、右の拳をもって握る「智拳印(ちけんいん)」、

を結び、胎蔵大日は、

膝上で左の掌を仰けておき、その上に右の掌をかさね左右の親指の先を合わせ支える「法界定印」、

を結ぶhttps://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/nyorai/dainichi.html形となる。いずれも、

宝蓮華座上、

にすわる(精選版日本国語大辞典)。

この両部曼荼羅に描かれている大日如来の姿は、

釈迦如来や阿弥陀如来のような出家の姿の、

如来形(にょらいぎょう)、

ではなく、うず高く髪を結(ゆ)うなど、

菩薩形((ぼさつぎょう))、

の姿をしているのが特徴となるhttps://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/nyorai/dainichi.html

胎蔵曼荼羅.jpg


金剛界曼荼羅.jpg

(金剛界曼荼羅 仝上)

この、

菩薩形の姿である大日如来、

は、宇宙の神格化とも考えられる密教観から、宇宙の真理そのものを現す絶対的中心の本尊として王者の姿をされている、

といわれ、その姿は帝王にふさわしく、

五仏を現した宝冠(ほうかん)をつけ、菩薩よりもさらにきらびやかな装身具を身にまとい、背に負う光背は円く大きなもので日輪を表し、諸仏諸尊を統一する最高の地位を象徴するにふさわしい威厳のある姿、

となっている(仝上)。密教においては、

一切の諸仏菩薩の本地、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされている(仝上)とある。なお、

東密(空海を開祖とする真言宗)では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密(最澄を開祖とする天台宗)では同体としている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

密教においては大日如来と同一視される、

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、

は、梵語、

Vairocana(ヴァイローチャナ)、

の音訳、

で、

光明遍照(こうみょうへんじょう)、

を意味し(大言海)、

毘盧舎那仏、

とも表記され、略して、

盧遮那仏(るしゃなぶつ)、
遮那仏(しゃなぶつ)、

とも表されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F、華厳経において、

中心的な存在として扱われる尊格、

である。

法身如來名毘盧、此翻徧一切處、報身如来名盧遮那、此翻淨満、応身如来名釈迦(法華文句會本)、
境妙究竟顯名毘盧舎那、智妙究竟満名盧遮那、行妙究竟満名釈迦牟尼(法華玄義)、

と、天台宗においては、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を、

法身仏、

とし、

遍一切處、

と訳す。盧遮那仏(るしゃなぶつ)を、

報身仏、

とし、

浄満、

と訳す、而して、釋迦を、

応身仏、

とす(大言海)とある。これは、「三身仏性」で触れたように、大乗仏教で、

真如そのものである法身(ホツシン)、
修行をして成仏した報身(ホウジン)、
人々の前に出現してくる応身(オウジン)、

の総称(大辞林)を、

三仏身、
三身仏、

ともいい、

仏の一体に具備する所を、三相に別ちて云ふ、

とあり(大言海)、

法身、

とは、

真如(一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理)の理解、如来(仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち修行を完成し、悟りを開いた人)自證の妙理にして、諸法の本体、萬法の所依となる仏身、

なり、

報身、

とは、

福徳、智慧の勝因に酬報して、佛の感得する相好円満なる色身、

なり、

応身、

とは、

衆生の機類(根機(機根とも 仏の教化を受けるとき発動することができる能力または資質)に隨応して、三業(さんごう 身業・口業(くごう)・意業)の化用を施す化身、

なり(仝上)とある。『撮壌集(さつじようしゆう)』(飯尾永祥(享徳三(1454)年)に、佛名について、

毘盧遮那仏、法身、廬舎那仏、報身、釈迦牟尼仏、応身、

とある。

しかし、『華厳経』では、

毘盧遮那者日也、如世閒之日、能除一切暗冥、而生一切万物、成一切衆生事業、今法身如来亦復如是、故以為喩也(大日経疏)、
毘盧遮那、此翻最高顯廣眼蔵、毘者最高顯也、盧遮那者廣眼也、先有、翻為徧照王如来、又有翻大日如来(即身成仏義冠註)、

と、

毘盧遮那、
盧遮那、

を、梵名

Vairocana(ヴァイローチャナ)、

の具略とし、

報身仏、

の称号として、

光明遍照、

略して、

遍照、

或いは、

最高顯廣眼蔵、

と訳す(大言海)とある。

東大寺の毘盧舎那仏.jpg


仏身論の上では諸宗によって、法相宗では、毘盧遮那と盧舎那を区別し、、

毘盧遮那を自性身(じしょうしん)とみなし、盧舎那を受用身とし、また変化身(へんげしん)としての釈迦を立てる、

天台宗では、

毘盧遮那を法身とみなし、盧舎那を報身、釈迦を応身とするが、究極的には毘盧遮那に帰着するとする、

華厳宗では、

毘盧遮那を十身具足の身とし、三身を立てないで、毘盧遮那も盧舎那も釈迦も同一仏身の異称とする、

のに対し、前述したように、密教では、

法身とみなし、大日如来に同じとする、

等々、解釈を異にしてしいる(精選版日本国語大辞典)。

大日如来と毘盧遮那如来の関係について、

大日如来、

は、思想史的には『華厳経(けごんきょう)』の、

毘盧遮那如来、

が大日如来に昇格したものと推定される(日本大百科全書)とあり、

毘盧遮那如来、

が、経中で終始沈黙しているのに対し、

大日如来、

は教主であるとともに説主でもある。普通、仏の悟りそのものの境地は法身(ほっしん)といわれ、法身は色も形もないから説法もしないとされる。けれども大日如来は法身であるにもかかわらず説法し、その説法の内容が真言(語)、印契(いんげい 身)、曼荼羅(まんだら 意)である。法身大日如来がこのような身・語・意の様相において現れているのが、

三密加持

であり、これが秘密といわれるのは、この境地は凡夫(ぼんぶ)はもちろんのこと十地(じゅうじ 菩薩(ぼさつ)修行の段階を52に分け、そのなかの第41から第50位をいう)の菩薩もうかがい知ることができないからであるとされる(仝上)。しかし真言行者は瑜伽観行(ゆがかんぎょう)によってこの生においてこの境地に至るとされ、これは大日如来と一体になることを意味する(仝上)。ゆえに、

大日如来は究極の仏でありながら衆生(しゅじょう)のうちに内在する、

とされる(仝上)。

胎蔵界(たいぞうかい)
と、
金剛界(こんごうかい)

は、前者は、『大日経(だいにちきょう)』、後者は、『金剛頂経』(こんごうちょうぎょう、こんごうちょうきょう)の説く仏の世界で、

「胎蔵界」の胎蔵とは梵語

garbha-kośa

の漢訳で、

一切を含蔵する意義を有し、また母胎中に男女の諸子を守り育てる意義、

があり(ブリタニカ国際大百科事典)、

大悲胎蔵生、

ともいい、

仏の菩提ぼだい心が一切を包み育成することを、母胎にたとえ(デジタル大辞泉)、

胎児が母胎の中で成育してゆく不思議な力にたとえて、大日如来の菩提心があらゆる生成の可能性を蔵していることを示したもの、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

大日如来の理性の面、

をいい、

蓮華、

によって表象する(デジタル大辞泉)。それを図示したのが、

胎蔵界曼荼羅(詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅Mahākaru ágarbha-sabhava-maala)、

で、

大日如来の一切の衆生に対する慈悲(大悲)によって、その悟りの内奥(胎蔵)から生起した(生)諸仏・諸尊の世界で、毘盧遮那仏が、その無数劫(こう)の過去世に蓄積した経験を現世に生きる衆生に対応した形に変化させ(神変)、その上に付加して(加持)、衆生に仏の真実の世界の内実(荘厳(しょうごん))としての意味づけを与えた、その総体(マンダラ)

である(日本大百科全書)、とされる。

金剛界(こんごうかい)、

は、梵語、

バジラダートゥvajradhātu、

の訳。金剛(バジラ)は、

もともとは武器をさす、

語であるが、ここでは大日如来(だいにちにょらい)の真実の智慧を意味し、それが堅固で壊れないことに例えられて、

金剛、

といい(仝上)、

大日如来を智徳の方面、

をいう(デジタル大辞泉)。これを図示したものを、

金剛界曼荼羅(まんだら)、

という(仝上)。

界(ダートゥ)、

は多義あるが、空海の『金剛頂経開題』によると、

体・界・身・差別、

の義をあわせもつという(日本大百科全書)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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