長者の門なる三車(みつぐるま)、羊鹿(ひつじしし)のは目も立たず、牛の車に心かけ、三界火宅を疾(と)く出でむ(梁塵秘抄)、
の、
三車、
は、「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れたように、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、
舎利弗 如彼長者 初以三車 誘引諸子(舎利弗、彼の長者の初め三車を以て諸子を誘引し)、
然後但与大車 宝物荘厳 安穏第一(然して後に但大車の宝物荘厳し安穏第一なることを与うるに)
然彼長者 有虚妄之咎(然も彼の長者虚妄の咎なきが如く)
来亦復如是(如来も亦復是の如し)
無有虚妄(虚妄あることなし)
初説三乗 引導衆生(初め三乗を説いて衆生を引導し)
然後但以大乗 而度脱之(然して後に但大乗を以て之を度脱す)
何以故(何を以ての故に)
如来 有無量智慧 力無所畏 諸法之蔵(如来は無量の智慧・力・無所畏・諸法の蔵あって)
能与一切衆生 大乗之法(能く一切衆生に大乗の法を与う)
但不尽能受(但尽くして能く受けず)
舎利弗 以是因縁 当知諸仏(舎利弗、是の因縁を以て当に知るべし)
方便力故 於一仏乗 分別三説(諸仏方便力の故に、一仏乗に於て分別して三と説きたもう)
と(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/2/03.htm)、
某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、
で(仏教辞林)、
火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、
三車一車、
による、
すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、
とある(仝上)。ただ、法相宗では、
羊・鹿・牛の三車、
の一つとして声聞乗の羊車、縁覚乗の鹿車に対して菩薩乗にたとえたとするが、天台宗では、
羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三つ(三車)に、大白牛車(だいびゃくごしゃ)を加えたもの、
を、
四車(ししゃ)、
とし、この説が一般にもちいられている(精選版日本国語大辞典)とある。だから、三車は、
羊鹿牛車(ようろくごしゃ)、
みつのくるま、
などともいう(仝上)。
三界火宅、
は、同じ、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、
三界無安 猶如火宅(三界は安きことなし 猶お火宅の如し)
と、
迷いと苦しみに満ちた世界を、火に包まれた家にたとえた、
三界火宅、
のたとえで、それは、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、
長者 見是大火 四面起(長者是の大火の四面より起るを見て)
即大恐怖 作是念(即ち大に驚怖して是の念を作さく)
我雖能於此 所焼之門 安穏得出(我は能く此の所焼の門より安穏に出ずることを得たりと雖も)
而諸子等 於火宅内 楽著嬉戯(而も諸子等、火宅の内に於て嬉戲に楽著して)
不覚不知 不驚不怖 (覚えず知らず驚かず怖じず)
火来逼身 苦痛切己 心不厭患(火来って身を逼め苦痛己を切むれども心厭患せず)
無求出意出(でんと求むる意なし)
舎利弗 是長者 作是思惟(舎利弗、是の長者是の思惟を作さく)
我身手有力(我身手に力あり)
当以衣[] 若以几案従舎出之(当に衣・を以てや若しは几案を以てや、舎より之を出すべき)
復更思惟(復更に思惟すらく)
是舎唯有一門 而復狭小(是の舎は唯一門あり而も復狭小なり)
諸子幼稚 未有所識(諸子幼稚にして未だ識る所あらず)
恋著戯処(戲処に恋著せり)
或当堕落 為火所焼(或は当に堕落して火に焼かるべし)
我当為説 怖畏之事(我当に為に怖畏の事を説くべし)
此舎已焼(此の舎已に焼く)
宜時疾出 無令為火 之所焼害(宜しく時に疾く出でて火に焼害せられしむることなかるべし)
作是念已(是の念を作し已って)
如所思惟 具告諸子 汝等速出(思惟する所の如く具に諸子に告ぐ、汝等速かに出でよと)
父雖憐愍 善言誘諭(父憐愍して善言をもって誘諭すと雖も)
而諸子等 楽著嬉戯 不肯信受(而も諸子等嬉戲に楽著し肯て信受せず)
不驚不畏 了無出心(驚かず畏れず、了に出ずる心なし)
亦復不知 何者是火 何者為舎 云何為失(亦復何者か是れ火、何者か為れ舎、云何なるをか失うと為すを知らず)
但東西走戯 視父而已(但東西に走り戲れて父を視て已みぬ)
爾時長者 即作是念(爾の時に長者即ち是の念を作さく)
此舎已為大火所焼(此の舎已に大火に焼かる)
我及諸子 若不時出 必為所焚(我及び諸子若し時に出でずんば必ず焚かれん)
我今 当設方便(我今当に方便を設けて)
令諸子等 得免斯害(諸子等をして斯の害を免るることを得せしむべし)
父知諸子 先心各有好所(父諸子の先心に各好む所ある)
種種珍玩 奇異之物 情必楽著(種々の珍玩奇異の物には情必ず楽著せんと知って)
而告之言(之に告げて言わく)
汝等所可 玩好 希有難得(汝等が玩好するところは希有にして得難し)
汝若不取 後必憂悔(汝若し取らずんば後に必ず憂悔せん)
如此種種 羊車鹿車牛車 在門外(此の如き種々の羊車・鹿車・牛車、今門外にあり)
可以遊戯(以て遊戲すべし)
汝等於此火宅 宜速出来(汝等此の火宅より宜しく速かに出で来るべし)
随汝所欲 皆当与汝汝が所欲に随って皆当に汝に与うべし()
爾時諸子 聞父所説 珍玩之物(爾の時に諸子、父の所説の珍玩の物を聞くに)
適其願故 心各勇鋭 互相推排(其の願に適えるが故に、心各勇鋭して互に相推排し)
競共馳走 争出火宅(競うて共に馳走し争うて火宅を出ず)
で(仝上)、
舎利弗。爾時長者。各賜諸子。等一大車(舎利弗、爾の時に長者各諸子に等一の大車を賜う)
とあり、
其車高広 衆宝荘校 周帀欄楯 四面懸鈴(其の車高広にして衆宝荘校し、周帀(しゅうそう)して欄楯あり。四面に鈴を懸け)
又其上に於いて幰蓋(けんがい)を張り設け、亦珍奇の雑宝を以って之れを厳飾(ごんじき)し、宝繩絞絡(ほうじょう・きょうらく)して、諸の華纓(けよう)を垂れた豪華なもので、
駕以白牛(駕するに白牛を以てす)
膚色充潔 形体妺好 有大筋力 (膚色充潔に形体・好にして大筋力あり)
行歩平正 其疾如風(行歩平正にして其の疾きこと風の如し)
又多僕従 而侍衛之(又僕従多くして之を侍衛せり)
と(仝上)、
「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」
という話(https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=103)で、これは、
主人が仏で、子どもがわれわれ衆生、邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えた、
というもので、
われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いている、
と解釈されている(仝上)。これが、
大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)
の由来でもある。
言諸子在火宅内時、長者許賜門外三車。所以諸子楽得三車。諍出火宅
ともある(法華義疏)
なお、「三界」は、
三有(さんう)、
ともいい(大辞林)、
一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、
とある(広辞苑)。つまり、仏教の世界観で、
生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、
を、欲界(kāma‐dhātu)、色界(rūpa‐dhātu)、無色界(ārūpa‐dhātu)の3種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、「欲界」は、
もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域、
で、ここには、
地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天、
の六種の、
生存領域(六趣(ろくしゅ)、六道(ろくどう))、
があり、欲界の神々(天)を、
六欲天、
という。「色界」は、
性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域、
をいい、
絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、
四禅天、
に大別される。「四禅天」(しぜんてん)は、
禅定の四段階、
その領域、とその神々をいい、「初禅天」には、
梵衆・梵輔・大梵の三天、
「第二禅天」には、
少光・無量光・光音の三天、
「第三禅天」には、
少浄・無量浄・遍浄の三天、
「第四禅天」には、
無雲・福生・広果・無想・無煩・無熱・善見・善現・色究竟の九天、
合わせて十八天がある、とされる。
「無色界」は、
最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界、
であり、
空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処、
の四天から成り、ここの最高処、非想非非想処を、
有頂天(うちょうてん)、ただ、「非想非々想天」で触れたように、「有頂天」には、
色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、
とする説、
色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん)
とする説の二説がある(広辞苑)。
(法華経の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』、逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」である https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
三界火宅、
は、
法華七喩(ほっけしちゆ)、
の一つである。この他に、
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
三草二木(さんそうにもく、薬草喩品 「一味の雨」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
がある。
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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