積もれる罪は夜の霜、慈悲の光にたとへずば、行者の心をしづめつつ、実相真如を思ふべし(梁塵秘抄)、
の、
行者(ぎょうじゃ)、
は、
修行者、
行人(ぎょうにん)、
ともいい(「行人」を「こうじん」と訓むと、道を行く人の意になるが、これでも意味の範囲内にあるように思う)、
仏道を修行する人、
の意で、念仏の人を、
念仏行者、
真言を行ずる人を、
真言行者、
などという(精選版日本国語大辞典)。
真如(しんにょ)、
は、梵語
Tathatā、
の訳、原義は、
あるがままであること、
そのような状態、
という意味で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82)、
一切存在の真実のすがた、
この世界の普遍的な真理、
の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)とされ、金剛経新註に、
不為曰真、不異曰如、
とある。『金剛般若経』では、
「真」とは真実、「如」とは如常、
の意味とし、
諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言う、
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82)。大般若経には、
常如其性、不虚妄、不變易、故名真如、
大乗仏教に属する論書『大乗起信論』(だいじょうきしんろん 六世紀半頃)には、
真如之體、離名字相、離心縁相、離言説相、故名離言真如、
明代の仏教書『大蔵法數』には、
真如者、乃真実無妄之理、
とある。これらを、
一切法のありのままのすがた。如々や如実、如などとも言われる。真実にして虚妄がないことを真といい、変わることなく常住することを如という。永遠に変わることのない真実は言葉などで示すことができないが、あえてそれを真如と称した、
とまとめている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9C%9F%E5%A6%82)のがわかりやすい。
真如は一切法の本性であり、万有の本体であり、如来の法身の自性でもある。人為的な判断や分別を通して認知されたすがたではなく、差別的な相を超えた無分別の立場で捉えられる絶対なるものである、
とし(仝上)、だから、
法、仏性、自性清浄心、如来蔵、法身、法界、法性、実相、実際、勝義、円成実性、涅槃、
などは真如の同義異語(同体異名)といえる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82・仝上)とする。
上述の『大乗起信論』では、
依言真如(えごんしんにょ)、
と、
離言真如(りごんしんにょ)、
を立てる(広辞苑)とあり、
真如とは、本来、言葉で説明し尽くすことのできない、言葉を離れたものです。これを「離言真如」といいます。真如は言葉で表現できないのですが、言葉に依らねば、伝えることができないので、言葉で真如を表すしかありません。これを「依言真如(えごんしんにょ)」と言います、
とある(https://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2016111246.html)。
仏の教えは文字やことばでは説明することも思い量ることもできないことを身をもって示したという、
維摩の一黙、雷の如し、
という逸話が、その間の事情を説明しているとされる。
いっさいの存在の本性である真如は、差別相を超えた絶対の一であるということを、
真如平等、
というが、
真如は一味平等であるが、この真如より染浄の縁にしたがって、一切万有の生滅の相が生ずるということ
を、
真如縁起、
といい、
如来蔵縁起、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること、
を、
真如の月、
といい、
煩悩が解け去ってあらわれてくる心の本体を月にたとえいう語、
であり、転じて、
一片の雲もない明月、
をもいう(仝上)。
万有の本体で、永久不変、平等無差別なもの、
を、
真如実相、
という(仝上)。
「真如」と「実相」は、同体のものに異なる立場から名づけたもの、
で、
涅槃、
身、
佛性、
も同義になる。冒頭引用の、
実相真如、
も、同義異語を並べて強調した形になる。
(「眞(真)」 https://kakijun.jp/page/shin10200.htmlより)
(「眞」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9Fより)
「眞(真)」(シン)は、
会意文字。「匕(さじ)+鼎(かなえ)」で、匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示す。充填の填(欠け目なくいっぱいつめる)の原字。実はその語尾が入声に転じたことば、
とあり(漢字源)、
会意。匕(ひ)(さじ)と、鼎(てい)(かなえ)とから成り、さじでかなえに物をつめる意を表す。「塡(テン)」の原字。借りて、「まこと」の意に用いる(角川新字源)、
会意文字です(匕+鼎)。「さじ」の象形と「鼎(かなえ)-中国の土器」の象形から鼎に物を詰め、その中身が一杯になって「ほんもの・まこと」を意味する「真」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji505.html)、
等々と同趣旨が大勢だが、
形声。当初の字体は「𧴦」で、「貝」+音符「𠂈 /*TIN/」。「𧴦」にさらに音符「丁 /*TENG/」と羨符(意味を持たない装飾的な筆画)「八」を加えて「眞(真)」の字体となる。もと「めずらしい」を意味する漢語{珍 /*trin/}を表す字。のち仮借して「まこと」「本当」を意味する漢語{真 /*tin/}に用いる、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9F)、
甲骨文字や金文にある「匕」(さじ)+「鼎」からなる字と混同されることがあるが、この文字は「煮」の異体字で「真」とは別字である。「真」は「匕」とも「鼎」とも関係がない、
とある(仝上)。
(「如」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82より)
「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、
会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもないものをさす指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B(AはほぼBに同じ、似ている)」という不足不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も、現場にないものをさす働きの一用法である、
とある(漢字源)。別に、
形声。音符「女 /*NA/」+羨符「口」。「もし~なら」「~のような、ごとし」を意味する助詞の{如 /*na/}を表す字。もと「女」が仮借して{如}を表す字であったが、「口」(他の単語と区別するための符号)を加えた、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82)、
会意。女と、口(くち)とから成り、女が男のことばに従う、ひいて、したがう意を表す。借りて、助字に用いる、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1519.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95