2023年11月08日

龍樹


南(なむ)天竺の鐵塔を、龍樹や大士の開かずば、まことの御法(みのり)を如何(いか)にして、末の世までぞ弘めまし(梁塵秘抄)、

の、

大士

は、「不軽大士(ふきょうだいじ)」で触れたように、

だいし、
だいじ、

と訓ませ、梵語、

Mahāsattva、

の訳、

摩訶薩(まかさつ)、
摩訶薩埵(まかさった)、

と音写され、

すぐれた人、
偉大な人、
立派な人、

を意味しhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB

大士、ダイシ、

とある「書言字考節用集(1717)」の註に、

法華文句、稱菩薩為大士、亦曰開士、出智度論、

とあり、また、

正士、

とも訳され、

菩薩の異称、

とされる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。特に『般若経』では、

自利利他のために菩提を求める姿勢が理想とされ、無執着(智慧)、輪廻を厭わない救済行・不住涅槃(方便)が尊重されhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB、自利のために菩提を求める、

小乗仏教者、
あるいは、
外教者、

と区別するために、

菩薩大士、
菩薩摩訶薩、

と呼ばれる(仝上)とある。「菩薩」については「薩埵」で触れたが、自利よりも利他を優先させ、

菩薩乗、

ともいわれる大乗仏教では、

覚りを求める心を起こせば、あらゆる衆生が菩薩となることができる、

とし、

菩薩、

は覚りを求める心を起こし、さらに自分以外のあらゆる衆生を救い導き、覚りを開かせようと誓った存在であり、覚りと衆生をともに気にかける存在であるとする。だから、

大乗の菩薩、

は、観音菩薩など高位の菩薩が多数存在する。このような菩薩は仏になれるにもかかわらず、あらゆる衆生を救い導こうという誓いのもと、自ら地獄等の悪趣に赴き教化活動をなす(仝上)存在とされる。

龍樹(りゅうじゅ)、

は、梵語、

Nāgārjuna(ナーガールジュナ)、

漢訳名で、

150~250年頃の南インドのバラモン出身の僧。部派仏教から後に大乗仏教に転じ、空(くう)の思想を説いた、

とされる、

中観派の祖、

であり(広辞苑)、

龍猛(りゅうみょう)、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9とあるが、

龍猛(りゅうみょう)、

は、梵語

Nāgārjuna、

密教で、7世紀頃の祖の一人、

とされ、

真言密教では付法の第3祖、伝持の第1祖とする、

が、龍樹(りゅうじゅ)との混同が多く、実在の人物か疑問視される(広辞苑・大辞林)ともある。両人を別人とする説には、

古龍樹が中観の祖、
新龍樹が密教の祖、

とするものもある(仝上)が、中国・日本の諸宗はすべて竜樹の思想を承けているので、

八宗(はっしゅう)の祖、

と称され(広辞苑)、真言宗では、龍猛が、

付法の八祖、

大日如来(だいにちにょらい)→金剛薩埵(こんごうさった)→龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)→龍智菩薩(りゅうちぼさつ)→金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)→不空三蔵(ふくうさんぞう)→恵果阿闍梨(けいかあじゃり)→弘法大師)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

第三祖、

とされ、浄土真宗では、龍樹が、

七高僧(インドの龍樹・天親、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・源空)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%AB%98%E5%83%A7

第一祖、

とされ、

龍樹菩薩、
龍樹大士、

と尊称される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9)とある。因みに、

中観派(ちゅうがんは)、

は、梵語、

Mādhyamika(マーディヤミカ)、

で、インド大乗仏教において、龍樹を祖師とする、

瑜伽行派(唯識派)と並ぶ二大学派のひとつでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE

大乗仏教の基盤であり、般若経で強調された、

空の思想、

を哲学的に基礎づけ、後世の仏教思想全般に決定的影響を与えた(世界大百科事典)とされる。

中央の大きな人物が龍樹.jpg

(中央の大きな人物が龍樹 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9より)

「中論」「十二門論」「大智度論」「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」

等々の著書があるとされるが、「中論」では、冒頭で、

不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不出なる、よくこの因縁を説き、よく諸の戯論を滅する仏を、我諸説中の第一なりと稽首して礼す、

と、

不生不滅(ふしょうふめつ)、不常不断(ふじょうふだん)、不一不異(ふいつふい)、不来不出(ふらいふしゅつ)、

という8つの否定、

八不(はっぷ)、

を説き、

因縁所生の法、我即ちこれ空なりと説く、

とし、「大智度論」で、だから、

この法皆因縁和合より生ずるが故に無性なり、
無性なるが故に自性空なり、

と説き、

仏法の中には、諸法は畢竟空にしてまた断滅せず。生死相続すといえども、またこれ常ならず。無量阿僧祇劫の業因縁は過ぎ去るといえども、また能く果報を生じて滅せず。もし諸法すべて空ならば、この品(般若波羅蜜経往生品中に往生を説くべからず、いかんが智有る者、前後相違せん。もし死生の相は実有ならば、いかんが諸法は畢竟空なりと言わん。但諸法中の愛着、邪見、顛倒を除かんが為の故に畢竟空と説く。後世を破せんが為の故に説くにあらず。汝は天眼の明無きが故に後世を疑い、自ら罪悪に陥らんと欲す。この罪業の因縁を遮せんが故に、種々に往生を説く、

https://true-buddhism.com/history/nagarjuna/

不常不断、

をとく。

一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと、

と、

縁起

無自性(空)

が主張の根幹にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)。つまり、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという、

独立した不変の実体(=自性)、

はなく、すべての存在は、

無自性、

であり、

空、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9と。それを、

概念を離れた真実の世界(第一義諦、paramārtha satya)、
言語や概念によって認識された仮定の世界(世俗諦 、saṃvṛti-satya)、

という二つの真理に分けた(仝上)。

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95


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