2023年12月05日

詩化注釈


大岡信『百人一首』を読む。

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本書は、ただ「百人一首」を注釈したのではなく、

「私は、この本でささやかな試みをしてみた。すなわち、通常の注釈書では「通釈」とよばれている部分に、行分けの形にした一種の現代詩訳を置いた」

ということを試みている(はじめに)。それを、

現代詩訳、

あるいは、

百人一首の和歌を「楽譜」とした、現代語 による「演奏」

と言っている。

現代詩、

というほど、言葉が結晶化されているわけではないので、和歌と対比すると、和歌が、

詩、

とすると、

散文詩、

的である。たとえば、第一首は、

秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみわが衣手(ころもで)は露にぬれつつ

が、

稲が実った田のかたすみ
番をするため仮小屋をたてて私は泊る
屋根を葺いた苫は即製 目はあらい
隙間から洩れ落ちる露に
濡れそぼつ袖は 乾くまもない

となる。どうしても、説明的になる。しかし、逆に、だから、和歌の持っている折り畳まれた心情や意味やイメージが、この説明でより分解され、わかりやすくなっている点はある。

『百人一首』は、

恋の歌、

が四十三首と、半数近い。しかも、

雜(ぞう)の部に入っている清少納言の「夜をこめて鳥の空音ははかるとも」や、春の部の周防内侍の「春の夜の夢ばかりなる手枕に」、あるいは秋の部にある後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵に」など、恋の歌としても通じるものである。

となると(解説)、ますます偏る。一応意識はしないで、選んでは見た。ただ、本書の構成上、どうしても、選び出すとなると、原歌とセットで取り上げることになる。けれども、名にし負う定家が、名歌許りを集めているのだから、その中から、素人が、選ぶのはかなり苦しい。ま、以下の通りではある。

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

山鳥は夜ともなれば 一羽一 羽
べつべつの峰に谷を隔てて眠るという
そのしだれ尾を闇のなかへ長く垂れて─
ああそのようにこのひややかな秋の夜の
長い長い時のまを 添うひともなく
わたしはひっそり寝なくてはならないのか

奥山に紅葉(もみぢ)踏みわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき

秋ふかい奥山に紅葉は散り敷き
妻問いの鹿が踏みわけ踏みわけ
悲しげな声で鳴きながらさまよう
あの声をきくと
秋の愁いはふかまるばかりだ

鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける

七夕の夜 かささぎが羽を連ね
思われ人を向う岸に渡してやった天上の橋よ
今は冬 かの天の橋にも紛う宮中の御階(みはし)に
まっしろな霜が降りている
目に寒いこの霜ゆえに しんしんと夜は深まる

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

春は爛(た)け 我にかえって眺めやれば
花はもう盛りをすぎ 色あせてしまった
ああ この長雨を眺めつくし
思いに屈していたあいだに 月日は過ぎ
花はむなしくあせてしまった そして私も

これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふ坂の関

これがかの 名にし負う逢坂の関
東下りの旅人も 京への人も
知り人も 見知らぬ人も
たとえこの地で東に西に別れようと
きっとまた逢う日もあろう
名にし負う 逢坂の関

みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにしわれならなくに

陸奥の信夫のもじずり
黒髪おどろに乱したようなその乱れ模様
それは今の私のこころだ
あなたは私を疑っておいでなそうな
なさけなや あなたよりほかの誰を思うて
こんなにこころを乱すものか

ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは

ちはやぶる神の御代にも
これほどの景観は未聞のさま
川水をからくれないにしぼり染めて
目もくらむ真紅の帯の
龍田川の秋

わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても遭はむとぞ思ふ

噂がたってからというもの
お逢いではず 心は怏々
お逢いしてもしなくても今となっては同じこと
難波の海の澪標(みおつくし)ではありませんが
この身を尽くし 捨てはてても
お逢いしたい 逢ってください

月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

秋の月を見あげていると
おもいは千々に乱れ もの悲しさに包まれる
秋はすべての人にやってきていて
私だけの秋というわけでもないのに
なぜかひとり私だけが秋の中にいるようで

心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

朝まだき 庭一面に ああ今年の初霜
白菊を折ろうと下り立ち 私はとまどう
霜の白菊が菊の白とまざり合って-
折るならば 当て推量に手をのばそうか
霜にまじって所在不明の白菊の花

久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ

ひさかたの天にあふれる日の光
春の日はゆったりとすぎ 暮れるともない
こののどかな日を ただひとり
花だけがあわただしく散る
なぜそのように 花よ おまえばかりが……

たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

親しい友はみな世を去って
私ひとり老さらばえて息づいている
高砂の松はいのち長く生い茂っているが
松は昔の友ではない みれば寂しさがいやまさる
ああ どこの誰を友と呼んだらいいのだろう

これは、注釈詩が成功している例のひとつに思う。

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

あなたはさあ いかがでしょうか
あなたの心ははかりかねます
でもこの見なれた懐かしいふるさと
さすがに花は心変りもせず
昔ながらに薫って迎えてくれていますね

しらつゆに風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

夜明けの原いちめんの秋の野草
そのうえにおくいちめんの露
風がしきりに吹き寄せるたび
ばらばらときらめいて散る
まだ糸を通していない 真珠の玉

しのぶれど色にでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

胸のうちに秘め隠し 忍びに忍んできた恋なのに
あわれ面(おもて)にまで出てしまったのか
「戀わずらいをなさっておいでか」
そう人から興味ありげにたずねられるほどに

戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

この私が 戀わずらいをしているという噂
人の口には戸はたてられぬ とはいうものの
なんということだろう
ひそかに ひそかに あのひとのことを
思いそめたばかり なのに

あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり

思いをとげるまでの苦しさ
あんなつらいことがあっただろうか
それなのに 私は今胸かきむしられている
あなたと一夜をともにしてからというもの
あんなつらさの思い出など
ものの数にもはいらなくなってしまった

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを

こんなにもこがれていますと
それだけでも伝えたいのにとても言えない
私はまるで息吹のさしも草
火がついて 私は燃える 熱して燃える
でもあなたには この火は見えない

あらざらむこの世のほかの思い出にいまひとたびのあふこともがな

わたしは死ぬかもしれません こんどこそ
死んであの世に ただ魂魄となって生き
この世のことを思い出すばかり―
ああそのとき きっと思い出すために
いまひとたび あなたにお逢いしたいのです

有馬山豬名(ゐな)のささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

わたしがあなたに「否」などと申したでしょうか
有馬山 豬名のささ原 風吹きわたれば
ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
そうでしょう この私が
なんであなたを忘れたりするものでしょうか

やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

こんなことを知っていましたら
ためらわず寝てしまえばよかったのに
夜がふけて 人の気も知らぬげな月が
西山にかたぶくまで眺め明かしたことでした
あなたをじっとお待ちしながら

大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

母のいる丹後の国は遥かかなた
私はまだその地を踏みもせず
なつかしい母の文(ふみ)もまだ見ていません
大江山そしてまた生野の道
あまりに遠い 天の橋立

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

そのかみ
奈良の都に咲きほこった八重桜
京の都の九重の宮居のうちに
今日照り映えて 咲きほこって

恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむなこそ惜しけれ

世間はどうしてこんなにも口さがないのか
さもなくてさえ情(つれ)ない人は恨めしく
わたしは侘しく 袖の乾くひまさえないのに
世間はどうして噂ばかり……この浮名ゆえ
涙に浸かって朽ちはてるのか 哀れ わたしは

さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ

夕暮れ
家にいても身にしみるさびしさ
おもてに出て見渡せば
どちらにも同じ
秋の色

わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

海原に舟を漕ぎだす
陸地はやや平らに沈み
見はるかす沖合は
白波ばかり……
ひさかたの雲かとばかり

瀬をはやみ岩にせかかる滝川のわれても末に遭はむとぞ思ふ

滝川の瀬は急流だから
岩にあたって激しく割れる 二筋に
けれどふたたび流れは出会う 抱(いだ)き合う
ああ 何としてでも 私はあなたと抱き合う
川瀬のように 今は二つに裂かれていても

長からむ心も知らず黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ

いつまであなたを繋ぎとめておけるでしょう
思うまいとしても思いはそこへ行ってしまう
別してこんなに黒髪も乱れたままに
いとしがり愛しあった夜(よ)の明けは
黒髪の乱れごころは千々のに乱れる

ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

待ち明したほととぎす
一声鳴いて あとはほのか
空をさぐれば
あの声の あれは残夢か
ただひとつ 有明の月ほのか

ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき

ままよ この捨て果てて悔いないいのち
とは言うものの 生きながらえてみればまた
今この時が恋しくなるのは必定さ
つらかった昔のことがこんなにも懐かしい
人間とはまたなんという奇妙ないきもの

村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
まだ真木の葉に光っているのに
はや霧が 万象をしっとり包んで
たちのぼる さわやかに……
秋の夕暮れ

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
絶えるならば絶えておくれ
このままこうして永らえていれば
心に固く秘め隠しているこの恋の
忍ぶ力が弱まって 思慕が外に溢れてしまう

人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

詮ないことだが世を思う
世を思えば物を思う
いとしい者がいる 憎い者がいる
つまらない世に
なおこの愛と憎しみのある心のふしぎ

こう取り上げてみると、どれも、どこかで耳にした歌だとわかる。その言葉の調子が、確かに残っている気がするのは、教科書などで何度か読んだからに違いない。

参考文献;
大岡信『百人一首』(講談社文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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