2023年12月09日
全貌瞥見
松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』を読む。
本書は、編者曰く、
芭蕉作と認定できる発句をすべて取り上げ、季語別に配列したもの、
で、
句の配列は、全体を春・夏・秋・冬・雑(無季)、
に分け、
季語別、
にし、各季語の中は、
年代順、
とした(凡例)とある。そのため、編者も指摘する通り、
芭蕉が各語(題)にどう取り組んだか、
はよく分かるが、その分、
芭蕉の起伏に富む生涯や俳風のめまぐるしい変容、
は、知らない者にはほとんどわからない、という難点がある。最終的に、
かるみ、
や、
世俗と風雅の並立、
のような句風らしいが、そんな専門的なことは脇に於いて、一句の、独立した面白さだけで、拾い上げてみた。
本書には、
983句、
があり、芭蕉が生涯に残した発句のほとんどが網羅されている。そのなかから、約九十数句選んでみた。ただ、素人の直観なので、俳句としてどうかの是非は、措いている。
『奥の細道 俳諧紀行文集』『幻住庵の記・嵯峨日記』で取り上げた句は、除くつもりだったが、やはり重なってしまうものもある。
るすにきて梅さへよそのかきほかな
梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろゝ汁
春もやゝけしきとゝのふ月と梅
むめがゝにのつと日の出る山路(やまぢ)かな
春なれや名もなき山の薄霞
辛崎(からさき)の松は花より朧にて
水とりや氷の僧の沓(くつ)の音
雲雀より空にやすらふ峠哉
てふの羽(は)の幾度越(いくたびこゆ)る塀のやね
君やてふ我や荘子(さうじ)が夢心
古池や蛙(かはず)飛こむ水のおと
山路来て何やらゆかしすみれ草
ほろほろと山吹ちるか滝の音
樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな
はなのくもかねはうへのかあさくさか
しばらくは花の上なる月夜かな
なつちかし其口(そのくち)たばへ花の風
声よくばうたはふものをさくら散(ちる)
行春にわかの浦にて追付(おひつき)たり
入(いり)か ゝる日も程々に春のくれ
一つぬひで後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ
曙はまだむらさきにほとゝぎす
郭公(ほととぎす)声横たふや水の上
卯の花やくらき柳の及(および)ごし
どむみりとあふち(樗)や雨の花曇
五月雨の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)
五月雨をあつめて早し最上川
山のすがた蚤が茶臼の覆(おほひ)かな
蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと
梢(こずゑ)よりあだに落けり蟬のから
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の声
面白(おもしろう)てやがてかなしき鵜ぶね哉
六月(ろくぐわつ)や峰に雲置(おく)あらし山
暑き日を海にいれたり最上川
飯あふぐかゝが馳走や夕涼(ゆふすずみ)
手をうてば木魂に明(あく)る夏の月
足洗(あらう)てつゐ明安(あけやす)き丸寐(まろね)かな
夏の夜や崩(くづれ)て明(あけ)し冷(ひや)し物
富士の風や扇にのせて江戸土産
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉
山も庭にうごきいるゝや夏ざしき
別ればや笠手に堤(さげ)て夏羽織
雲の峰幾つ崩て月の山
清滝(きよたき)や波に散込(ちりこむ)青松葉
猿を聞人(きくひと)捨子に秋の風いかに
塚も動け我泣声(なくこえ)は秋の風
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
物いへば唇(くちびる)寒し秋の風
よるべをいつ一葉(ひとは)に虫の旅ねして
なでしこの暑さわするゝ野菊かな
道のべの木槿は馬にくはれけり
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
荻(おぎ)の声こや秋風の口うつし
蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上
あけゆくや二十七夜も三(み)かの月
三日月や地は朧なる蕎麦畠
馬に寐て残夢月遠し茶のけぶり
そのまゝよ月もたのまじ息吹やま
名月や池をめぐりて夜もすがら
三井寺の門たゝかばやけふの月
やすやすと出ていざよふ月の雲
吹とばす石はあさまの野分哉
鷹の目もいまや暮ぬと啼鶉(うづら)
日にかゝる雲やしばしのわたりどり
菊に出てな良と難波は宵月夜(よひづきよ)
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うが)ツ
秋の夜を打崩したる咄(はなし)かな
入麵(にうめん)の下焼立(したたきたつ)る夜寒かな
手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜
秋もはやばらつく雨に月の形(なり)
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ
こちらむけ我もさびしき秋の暮
此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
秋深き隣は何をする人ぞ
此秋は何で年よる雲に鳥
葛の葉の面(おもて)見せけり今朝の霜
ご(落葉)を焼て手拭(てぬぐひ)あぶる寒さ哉
塩鯛の歯ぐきも寒し魚(うを)の店(たな)
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
寒菊や粉糠(こぬか)のかゝる臼の端(はた)
凩に匂ひやつけし帰花(かへりばな)
埋火(うずみび)や壁には客の影ぼうし
あら何共(なんとも)なやきのふは過て河豚(ふくと)汁
海くれて鴨のこゑほのかに白し
何に此(この)師走の市にゆくからす
中々に心おかしき臘月(しはす)哉
から鮭も空也の瘦も寒の内
節季候(せっきぞろ)の来れば風雅も師走哉
くれくれて餅を木魂(こだま)のわびね哉
年暮ぬ笠きて草鞋はきながら
分別の底たゝきけり年の昏(くれ)
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
冬の日や馬上に氷る影法師
『笈の小文』で、格調高く、
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(通カ)する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処 月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
と述べたり、元禄五年二月一八日付けの曲水宛書簡における、風雅之道筋、大かた世上三等二相見え候と、
まず下等は点取の勝負にこだわる俳諧。しかしこれも「点者の妻腹をふくらかし、店主の金箱を賑ハし候ヘバ、ひが事せんニハ増りたるべし」、
中等は、同じ点取でも勝負にこだわらないおっとりとした俳諧。少年のよみがるたに等しいが、「料理を調へ、酒を飽迄にして、貧なるものをたすけ、点者を肥しむる事、是又道之建立の一筋なるべきか」、
上等の俳諧は、「志をつとめ情をなぐさめ」「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入やから」、
と述べている部分(西田耕三「芭蕉の常識」https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4741955/008_p094.pdf)よりは、
俳諧はなくてもありぬべし。たゞ世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人といふべし(続五論)
とか、ある門人(路通のことらしい)について
かれ、かならずこの道に離れず、取りつきはべるやうにすべし。俳諧はなくてもあるべし。ただ、世情に和せず、人情通ぜざれば、人ととのはず。まして、よろしき友なくてはなりがたし
とか、
予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆にさかひて用る所なし(柴門之辞)、
等々というところに、芭蕉の到達した境地があったのではあるまいか。たとえば、
菊の香や庭に切たる履(くつ)の底
から鮭も空也の瘦も寒の内
といった風な。
なお、松尾芭蕉の俳諧紀行文『奥の細道』『幻住庵の記・嵯峨日記』については触れた。
参考文献;
松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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